[和泉市]全国池田氏の発祥の地|池田下町【社寺・旧跡めぐり】

投稿者 記者・ 杉本

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泉北1号線の室堂交差点から和泉府中に向かう国道480号線。飛鳥時代、この辺りに寺院が建ち並んでいた。池田下町には池田氏が造営した池田寺、阪本町には坂本寺、府中町4丁には和泉寺。出土した柄や文字が刻まれた瓦から、坂本寺が7世紀中頃、池田寺と和泉寺が7世紀後半創建と推定されている。

隣の万町にある天受院には法隆寺のものと酷似した飛鳥仏が伝わっていて、当時この辺りが仏教の重要拠点だったことが伺える。坂本寺は伽藍配置が分かっているが、池田寺と和泉寺は跡が確認されているだけだ。「泉州誌」や「和漢三才図会」によると、池田寺は金堂・宝塔・鐘楼など七堂伽藍を備え、かなりの規模だったようだ。法隆寺は607年創建だが、日本書紀によると670年に焼失した後に再建され今に至るので、ほぼ同時期に存在していたことになる。法隆寺は今や世界遺産だが、池田寺は残念ながら元の姿を失ってしまった。

しかし、別の形で日本各地に名前を馳せている。文字通り「池田」という名前で、だ。和泉市池田下町は全国の池田氏の発祥の地なのだ。池田氏は12代景行天皇の末裔(倭建命(やまとたけるのみこと)の双子の兄・大おおうすのみこと碓命の子孫)が県首となり池田姓をったことに始まる。池田氏は摂津と美濃に荘園を持っていた。そこから池田氏は摂津&美濃と深く関わるようになる。まず、池田氏の末裔が大阪北部に移り住んで摂津池田氏の始祖となり、「池田市」の由来となった。さらに、摂津池田氏の末裔が美濃に移り住んで美濃池田氏となった。大名の池田家は美濃池田氏と称している。美濃との縁は池田氏の祖・大碓命から。

古事記によると、大碓命は父の景行天皇に命じられ、美人姉妹と評判だった美濃国造の大おおねのみこ根王の娘達(兄比売(め)、弟比売おとひめ))を視察する。

ところが自ら姉妹と結婚し、それぞれと子を生してしまう。大碓命は父の前に顔を出せず、宮中の仕事を放棄。みかねた父が倭建命に「ねぎし教え諭せ(ちゃんとわからせろ)」と命じたところ、倭建命は意味を取り違えて兄を殺してしまった。日本書紀では、大碓命は父によ
って左遷され美濃に封じられたとある。古事記でも日本書紀でも、池田氏が最初から美濃と縁があったことは確かだ。現在、池田さんは美濃や摂津だけでなく日本各地で栄えている。

記事中に掲載されている情報は掲載日(2022年12月2日)時点のものです。

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