(郷土史家 檜本多加三<檜尾在住>)
堺ゆかりの小西行長が関ヶ原の戦いで敗れて捕まり、堺と大坂を引き回された後、石田三成と共に京で殺され、さらし首になりました。親族の多くも殺されましたが一部の親族が讃岐に逃げていたようです。

「今度、三宝にできた新田(現・南島町)に小西行長をたたえる石碑が建ったそうやで」
「小西行長ちゅうたら、権現様(徳川家康)に弓を引いたっちゅう人間やろ」
「そうや」
「そんな人間をたたえるっちゅうのは、お上にタテをつくということになるで。罰せられへんかったらエエのになぁ」
「そこやねん。小西行長は確かに関ヶ原で西軍の石田方についたけどな、キリシタンとして孤児院みたいな所に毎年百石も米を送りこんでたそうや」
「そりゃあスゴイ」
「それだけやのうて、ライ病の人を保護する建物を堺や大坂に建ててかくまったらしい」
「みなライ病と聞くと、町や村から出て行けぇって言うもんな。それをかくまうって小西行長もエエとこあったんやなぁ」
「讃岐からやって来て三宝に新田を開いたのが小西の縁者で、先祖供養を兼ねて顕彰碑(供養塔)を建てたんや」
ライ病とは現在ではハンセン病と呼ばれるもので、国内の患者はすべて完治していますが、当時は「不治の病」として恐れられ、患者はずっと差別され苦しめられてきました。
時代の制約はあったにせよ、苦しい立場の人に手を差しのべようとした小西行長を、私たちは誇りにしたいと思います。
顕彰碑は、昭和36年の大和川拡張工事で泉北の鉢ヶ峯公園墓地(堺公園墓地)に移されています。



