[和泉市]全国坂本姓の発祥の地|禅寂寺(坂本寺)

投稿者 記者・ 杉本

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前回は全国の池田さん発祥の地の池田寺をご紹介した。今回ご紹介するのは隣町で、坂本龍馬はじめ全国の坂本さん発祥の地にある禅寂寺(阪本町551)だ。

禅寂寺は元の名前を坂本寺といい、飛鳥時代に地元の豪族である坂本臣(氏)の氏寺として開創した古刹。
天平時代に行基が創建したという説もあるが、出土した寺院の瓦からも飛鳥時代創建と推定される。
1966(昭和41)年の発掘調査で法隆寺式の七堂伽藍の大寺院だったことが確認されている。
境内に残る当時の塔刹柱礎石(とうさつちゅうそせき・府文化財)はかなりの大きさで、往時の規模がよくわかる。

坂本氏の姓は領地の坂本郷にちなんで賜ったもので、元々は紀氏。紀氏の祖は武内宿彌(たけのうちのすくね)の息子・紀角宿彌(きのつののすくね)だ。
武内宿禰は景行天皇(倭建命の父。前回参照)から仁徳天皇までの5代に重用された。
武内宿禰の息子達はそれぞれ紀氏、蘇我氏、波多氏などの祖になり、末代まで栄えた。紀氏に連なる坂本氏もまた連綿と続いた。

戦国時代、坂本長徳・元永の親子は織田信長に仕えていた。
しかし信長が畿内各地を焼き討ちした際に坂本寺も兵火にあい焼失してしまう。
同時代、信長に仕えた明智光秀は近江の坂本に坂本城を築いた。

同じ坂本なのは偶然ではなく、かつて坂本氏の一部が交通の要所である近江に移り住み、その地にも坂本と名付けたためだ。
光秀は信長を本能寺の変で滅ぼした後、三日天下で滅んだ。
この時土佐に落ちのびた光秀の一族が坂本と名乗ったのが坂本龍馬の御先祖と伝わっている。
龍馬自身も「土佐日記」著者の紀貫之に連なる紀氏と教えられていたらしい。
坂本、土佐、近江。
「土佐」の「坂本」龍馬が暗殺されたのが「近江」屋だったというのも歴史の妙か。

その後、坂本寺は禅寂寺として再興されて現在に至る。
神仏習合の名残りか、郷荘神社の参道のさらに奥に位置する現在の禅寂寺だが、近年建て替えられたこともあってスッキリと現代的な印象だ。

本堂には御本尊の薬師如来、脇侍に阿弥陀如来座像(平安時代)がおさめられている。
江戸時代、この阿弥陀如来像を担いで池に投げ込み雨乞(ご)いする風習があったという。
現代の感覚ではバチ当たりな気もするが、当時はおおらかだったようだ。

現在の禅寂寺は「和泉・堺のぼけよけ二十四地蔵」22番寺で、ぼけ除けのお寺さんとして信仰を集めている。時代ごとに表情を変えつつ飛鳥時代から続いてきた坂本寺(禅寂寺)だが、善男善女が健やかな暮らしを願う現在の姿は平和そのものだ。

記事中に掲載されている情報は掲載日(2023年1月20日)時点のものです。

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