峯野繁信さん(95歳・富蔵=写真)が戦争体験談の記録動画で語り部の一人を務めた。
戦後80年の節目に、29日大阪国際交流センター(上本町)で開催される大阪府と大阪市、堺市が共催の「戦後80年平和祈念・大阪戦没者追悼式」にあわせて上映する。
上映に先立って、5月末堺市役所で動画撮影がされた。峯野さんは自身の幼少期から終戦の1945年(昭和20年・15歳)までの記憶をもとに戦時下の暮らしや家族、身近に感じた戦争について質問に答える形式で話をした。以下、峯野さんの話。
「昭和10年に父が出征し、昭和12年志那事変(日中戦争)で中国へ。その後の大東亜戦争の頃は世の中に戦争色が強まり農家は米や農作物を全て供出していたため、自分たちは芋の根や米に麦を混ぜて食べた。9年間不在だった父に代わり自分も農業をする祖父母を助け、村の人々が手伝いに来ることもあった。学校では勤労奉仕もした。父の無事を願い、母は毎朝4キロ先の氏神様へ昭和19年(14歳)に父が復員するまでおまいりを続けた。近所に兵舎が建ち聴音機施設ができた。銃や高射砲は見たことはなかったが、兵隊さんにもらったようかんの味が忘れられなかった。終戦時、兵隊さんは100人ほどいたかも。ある日アメリカ軍の艦載機が自宅頭上から狭山を越え、くみの木の水田に墜落事故をした。現場へ行き、その時実際の白人兵を見た。ラジオから流れる敵機情報は潮岬通過後約30分で自宅上空へ。家の明かりを消して静かに通過を待つことも。父は金きんし鵄勲章を授かったが戦地での事を多くは語らず、『日本が負けると大変なことになる』と話す言葉に重みがあった。
「裏山で堺大空襲を見た」
堺大空襲は空襲警報が鳴り、B29(戦略爆撃機)飛来後しばらくすると裏山から焼夷弾が枝し垂だれ花火のように降り落ち辺りが真っ赤になるのを見た。3日後、親戚が暮らす西湊へ自転車で行くと焼夷弾による火災があちこちで続いていた。自分は爆撃を受けた体験はない。そして8月15日の玉音放送は村の盆踊り準備中に聞いた。すぐに敗戦とわからなかったが大人たちの様子から2日ほどしてようやく理解した。戦争が終わった喜びと同時にこの先どうやって生きていけばいいのかと漠然とした不安を抱いた」と語った。
最後に峯野さんは「この先も平和であってほしいと願いつつ、平和と自由の共存が難しい時代になったように感じる」と今も世界で起きている紛争や戦争について思いを述べた。
追悼式には市役所から送迎バス運行
「戦後80年平和祈念・大阪戦没者追悼式」(上本町)はだれでも参列できる。▽堺市役所から会場まで無料送迎バスを運行(※事前申込制・先着順)▽式典当日、堺市役所(高層館)北側ロビーで映像等をライブ上映▽式典の様子はYouTubeチャンネルで配信。「大阪戦没者追悼式」と検索を。
詳しくは堺市HP、または堺市健康福祉局長寿社会部長寿支援課072・228・8347
詳細内容(PDF形式):こちらからでも

