[堺市南区]時代の荒波にもまれる/鎌倉時代からの小谷城

投稿者 記者・ 杉本

「小谷城古城乃跡」の石碑

小谷城(南区豊田)は鎌倉時代に約80メートルの山をそのまま城にした山城の城址。代々治めてきた小谷家の始祖は鎌倉時代に若松荘の地頭を務めた平頼晴。

頼晴は池禅尼(いけのぜんに)の孫にあたる。池禅尼は平清盛の父・忠盛の後妻で、清盛の義母。宮中で平家と源氏が勢力を争う中、池禅尼は鳥羽天皇の中宮・待賢門院(たいけんもんいん)に仕える家の出で人脈があった。しかも、実子の頼盛を兄・清盛に従わせて平家をまとめたので、清盛も義母を重んじた。

平治の乱で平家が実権を握り、源氏の嫡子で当時13歳の源頼朝が捕らえられると、池禅尼は清盛に頼朝の助命を嘆願した。頼朝が若くして亡くなった実子・家盛に生き写しだったからというのが俗説だが、実際は前述の人脈から、頼朝が出仕する待賢門院の娘・上西門院や、待賢門院に同じく仕えた頼朝の母の実家・熱田大宮司家が働きかけた。

頼朝は恩に着て、平家滅亡後も池禅尼と頼盛を保護した。とはいえ都では肩身が狭かったのか、頼盛の子・頼晴は仁和寺の寺領だったこの地の地頭となって、小谷城を築いた。

その後小谷城は時代の荒波にもまれた。南北朝時代は南朝方で、見晴らしの良さから、浜寺の大雄寺から千早赤阪城に情報を伝えるのろしの中継地点となった。戦国時代は根来党で、織田信長によって1575年に落城した。大坂夏の陣では徳川方として勝利、江戸時代は郷士として伯太藩渡辺家に仕え、庄屋を務めた。

なお堺市は、昭和40年に「小谷殿古城乃跡」の石碑を玄関口に建てた。

小谷城古城乃跡周辺地図

 

※2018年2月22日号の記事を再度掲載します。

記事中に掲載されている情報は掲載日(2025年12月14日)時点のものです。

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「小谷城古城乃跡」の石碑
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