(郷土史家 檜本多加三<檜尾在住>)
現在、泉北の帝塚山学院泉ヶ丘中学校・高等学校の西側に晴美公園があり、その中央に三ツ割池が残されています。

なぜ三ツ割池と呼ぶのかというと、辻之・上之・高蔵寺の三つの村で水を分けたからでした。江戸時代中期の小出主計が陶器の殿さんだった1772年の話。
「去年は日照りで、米も綿も不作やったけど、陶器山の手前に三ツ割池がでけたんで、今年は米も綿もうまくいきそうやな」
「そやけど、6・7段の小さな池の水だけで大丈夫やろか」
「陶器山の水をみな集めて、少したまれば北側の戌坊池にすぐ送り、そこから辻之と上之に水をまわすんや」
「そやけど、あそこは山土(やまつち)で、水もちが悪いんとちゃうか」
「お前、何も知らんのやな。そのために尾張の黒鍬衆(くろくわしゅう)を呼んできたんや」
「なんや、その黒鍬衆たらは」
「有名な池造り専門の職人集団で、尾張の知多半島とかいう所から来てもろたんや」
「エライ遠い所から来たんやなぁ」
「そうや。そのかわり、床しめも堤防のハガネ入れも完璧らしいわ」
「ハガネ入れって、鉄板でも入れたんか」
「あんな、池の底にも堤にも、粘土を厚く塗り固めることをハガネ入れと言うんや。特に堤には、ぶ厚い粘土層を築いて水漏れを防ぐらしいわ。日本中の池を造りに回ってて、横山や滝畑の池も尾張の黒鍬衆にハガネ入れをしてもろたんやて…」
尾張の黒鍬衆は、当時の職人の二倍の賃金をもらっていたため裕福で、旅先でモテモテだったとのこと。当時のはやり唄に「ついて行きたや黒鍬さまに 尾張城下みとうござる」などといった一節までありました。


