[泉北] 陶器山七不思議6・空海が乗った遣唐使船に似た? 舟の型

投稿者 記者・ 杉本

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陶器山七不思議は陶器山近辺に残る弘法大師空海にまつわる伝説だが、今では正確な場所が分からなくなっている。今回の「舟の型」の伝説は2通りある。1つは小山の形が空海の帰路の遣唐使船に似たというもの。もう一つは高野山に向かう時に乗ってきた舟が朽ちて、窪みだけ残ったというもの。猫坂から南に約500m辺りというから、現在の陶荒田神社付近だろうか。

空海は804年の遣唐使船で唐に渡った。全20回の遣唐使で、空海が参加したのは最澄と同じ18回目。空海の才は超人的だったが、中でも語学に非凡な才を発揮した。往路の船が嵐で福州に漂着した際、大使の藤原葛野麻呂が書いた文書が通じず、無名の留学僧だった空海が書いて入唐の許可を得た。空海はこの時既に中国語だけでなく梵語まで完全にマスターしていた。長安の青龍寺で師・恵果が千人いた弟子を差し置いて空海を正式な後継者にしたのはその器と資質、中でも密教に必要不可欠な梵語を自在に操る力を備えていると見極めたからだ。恵果は空海に密教の奥義を授け、仏法を日本に広めるように命じて亡くなった。空海は師の言葉に従い、20年の予定を強引に2年で切り上げて帰国した。大宰府到着後、朝廷は処遇を考えあぐねて空海を留めたが、仏法や最先端の仏教を早期に持ち帰ったことを国益と判断して許した。空海は日本の中枢で密教を広めていき、816年に高野山を開いた。

偉大な空海の足跡をしのんで舟の型探しをしようと思われた方のためにご参考まで。遣唐使船説だと、奈良県朱雀門ひろばにある復原遣唐使船が精巧なので、似た形の小山を探せば良さそうです。高野山に行く時の舟説だと、近距離移動用の普通の舟なので、窪みの形にこれといった特徴はありません。幸運を祈ります。

(2019(平成31)年6月27日号の記事を再掲載しました)

記事中に掲載されている情報は掲載日(2020年11月10日)時点のものです。

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