以前、「東野勘三郎頌徳碑(しょうとくひ)」のことを紹介した。「私たちの街」をテーマに行われた堺・泉北かいわい展に出品された作品の一つ「上神谷繁栄」の題材がこの石碑で、作者・東野穂澄さん(豊田)の曽祖父である東野勘三郎氏の地元・上神谷に対する功績を称えたものだ。勘三郎氏の功績と共に、地元農業の歴史を見てみよう。

江戸時代、和泉国では米以外の換金作物として木綿が盛んに栽培されていた。毛足が長く良質で、和泉木綿として高く評価された。しかし、明治29年の輸入綿花税撤廃で、綿産業は残ったものの、木綿は生産されなくなってしまった。
大正に入ると、米価が暴落する年が続き、米の郷・上神谷村は困窮した。そこで、勘三郎氏は木綿に代わる換金作物として、地元の土と気候に適したタバコの栽培を推し進めた。16世紀後半、ポルトガルから伝来したタバコ包丁が最初に堺で作られ、徳川家が「堺極」と認めたブランドになるなど、堺はタバコ産業になじみがあった。勘三郎氏の熱心な指導で、タバコ栽培は順調に生産量を伸ばし、村は随分豊かになった。
村会議員を務め、昭和14年、地元への多大な功績が称えられ、豊田に頌徳碑が建てられた。昨年、頌徳碑は勘三郎氏が生前住んでいた現在の場所に移設された。上神谷のタバコ栽培は無くなったが、一つの作物に依存しないという方針は受け継がれ、上神谷米に加えて、苗全般や葉物野菜作りが盛んな土地柄になっている。

石碑の漢文がところどころ不明瞭なこともあり、専門家による解説を読んでも、勘三郎氏がいつ亡くなったのかはハッキリしない。石碑の最後にある昭和14年という数字だけが確かに読み取れる。14年に建てられたのか、その年に亡くなったから建てたのかは、穂澄さんにもわからないという。
※2017年5月11日号の記事を再度掲載します。

