(郷土史家 檜本多加三<檜尾在住>)
昔、泉北の村では、弘法大師のことを親しみを込めて「お大師さん」と呼んでいました。空海とも呼ばれ、平安時代には最澄と並ぶ優れたお坊さんでしたが、そのお大師さんが、今の栂・美木多駅の辺りまでやってきました。そして喉がかわいたので、村人たちに「水を一杯くだされ」と言いました。
ここまでは、美木多地域の人も上神谷地域の人も、ほぼ同じ話をしてくれます。ところが、ここから先の話は両者では正反対の話となるのです。
美木多地域では「旅に疲れたお年寄りが〝水を飲みたい〟と言ったので、美木多の村人はお大師さんとも知らず、井戸水をくんでその老人に差し上げた。しかし、上神谷の村人は水を上げなかったので、それ以降、上神谷地域に栗が実らなくなった」と言い伝えられています。
一方、上神谷地域では「旅に疲れたお年寄りが〝水を飲みたい〟と言ったので、上神谷の村人はお大師さんとは知らず、井戸水をくんでその老人に差し上げた。しかし、美木多の村人は水を上げなかったので、それ以降、美木多地域に栗が実らなくなった」と逆さの話が言い伝えられています。どちらも「旅のお年寄りが実はお大師さんだった」というのが話の結論でした。
現実的には、美木多地域でも上神谷地域でも栗が実っています。もっと現実的で夢のない話をすると、弘法大師ゆかりの槇尾寺(施福寺=当時は血渟<ちぬ>の山寺)でさえ、実際に訪れたかどうか分からず、訪れたとすれば、大同4年(809年)1~7月の間しかないとされています。その前後に、弘法大師が泉北丘陵を訪れたのでしょうか。



