[泉北]地域とともに・・・本紙創刊50周年

投稿者 コミュニティ

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 おかげさまで、本紙はこの4月1日号で創刊50周年を迎えます。開発初期の泉北ニュータウンで、小さなB5判8ページからスタート。その後、ニュータウンの入居増加とともに部数やページ数、発行回数を徐々にふやし、配布エリアも金剛・狭山地区、泉北ニュータウン周辺部へと広げてきました。紙面スタイルもA4判からタブロイド判カラー導入(現在)へと変わりました。創刊当初から比べると、ページ数や紙面スタイルはずいぶんと変わりましたが、〝地域に密着した紙面づくり〞の姿勢は変えておりません。今後も、地域とともに歩み、成長していきたいと思います。 〔さらがい〕

写真:50年前の泉ケ丘駅周辺。栂方面には鉄道は伸びていなかった

鉄道開通と同時に

71年(昭和46年)4月「こんにちは」創刊

71年4月1日、泉北ニュータウンの〝大動脈〞として、泉北高速鉄道が泉ケ丘駅まで開通。この日、本紙が「泉北こんにちは」のタイトルで〝うぶ声〞をあげました。

 その第1号をめくってみると、▽高くつく泉北鉄道の運賃、泉ヶ丘〜難波が150円▽「泉北ニュータウンの公社住宅に当選しました。鉄筋家屋は初めて、団地住まいも初めて。あとは交通の便が心配です」(入居予定者の声)▽公立保育所をつくれ、若松や宮山台で請願運動――などの記事。

 鉄道が開通するまで、泉北ニュータウンは宮山・竹城・若松台だけだったが、鉄道開通とともに三原・茶山台で入居が始まり、翌5月にはニュータウンの人口が2万人を超えました。

まだ〝陸の孤島〞

72年(昭和47年)3月コミュニティに改称

 このころ、高倉・晴美・槇塚台と相次いで入居が始まり人口は3万人に達した。しかし、ニュータウンにはまだ消防署がなく、電話局に電話を申し込んでも1年ほど待たなければ架設されなかった。保健所も泉ヶ丘センタービル内に手狭な分室(鳳保健所泉北分室)しかなく、ニュータウンはまだまだ〝陸の孤島〞だった。 そんな中で、ニュータウンに〝温かい人間関係を〞と、本紙の名前を「泉北コミュニティ」に改めました。

10万人を突破

75年(昭和50年)9月A4判に紙面拡大

 この年3月、光明池地区(赤坂台)で入居が始まり、7月にはニュータウンの人口が10万人を突破。同じ7月に本紙は第100号を迎えました。しかし、急ピッチで進む入居増に伴って発行部数を増やしていかなければならず、印刷コストの面から、9月に紙面サイズをひと回り大きなA4判(週刊誌大)にしました。

金剛東団地の造成進む

78年(昭和53年)4月 金剛・狭山版を創刊

 金剛団地と狭山ニュータウンを対象に、泉北コミュニティ「金剛・狭山版」を創刊。月2回発行でスタートしました。金剛東団地は、まだ造成真っ最中で、入居が始まったのはこの3年後でした。

 金剛・狭山版の創刊から6年後の84年(昭和59年)4月、現在の「金剛・さやまコミュニティ」に名前を改めました。金剛駅から金剛東へ南海バスの運行が始まったのも、この4月でした。

地価の高騰続く

88年(昭和63年)1月 泉北ブルー版を分冊

 泉北コミュニティが32〜40ページと分厚くなり「ページ数が多くて見にくい」という声が出てきたので、その中のブルーページを分離し、黒とブルーページの分冊形式にしました。

 泉北・狭山・金剛地区では昭和62年に入ってから地価が上昇し始め、本紙でも「地価高騰」や、公団・公社の分譲住宅に「応募殺到」の記事が多くなりました。投機目的の不正購入者に対する公的機関の甘いチェックが問題になりました。

タウン大賞に

 なお88年11月には、NTT全国タウン誌フェスティバルで、本紙が大賞に選ばれました。

高齢社会に向けて

90年(平成2年)10月 紙面も活字も大きく

 長い間、読者になじんでもらったA4判サイズから、印刷上の都合で現在のタブロイド判に変更。これを機にカラーを導入し、お年寄りにも読みやすいようにと活字もひと回り大きくしました。

 ▽狭山ニュータウン7.3%▽金剛団地6.3%▽泉北ニュータウン4.6%――これは、人口に占める65歳以上の比率(昨年のデータ)です。この比率は年々増えており、ニュータウンでも高齢化社会は〝すぐそこ〞といった感じでした。

泉北高速と20周年共催

2010年7月から本紙オールカラーに

 91年12月、本紙と泉北高速鉄道が20周年を記念して鴨谷台グラウンドで「泉北グリーンロードラン」を共催。各地から260チームが参加した。96年5月には、伏尾の画家下垣内末春さんをしのぶ「堺風物詩百景」の原画展を、本紙がパンジョホールで開催した。

 97年3月、給食調理員を定年延長させて、年収700万円以上払っていた堺市を「違法支出だ」と本紙が提訴。2001年6月、高裁が「市長は670万円を市に返せ」と判決した。

泉北ニュータウンの『誕生前夜』を出版

 泉北ニュータウン開発当時の思い出を、本紙が7人にインタビュー。06年4月に出版した。(南図書館にあります)

 ▽大蓮公園は〝桜木峠〞と呼んでいた(櫻井神社宮司・井守節さん)▽「美木多」の名をニュータウンにも残す(堺市議・北条信一さん)▽ニュータウン周辺の児童も、通学できるように選択制にした(堺市長・土師半六さん)▽晴美台にあった三ツ割池から、高倉寺の奥の院池まで水を引いていた(竹城台東保育園理事長・谷口寿栄さん)▽地主らが農民組合を組織して団結小屋に泊まり込んだ(野々井の地主・巽正雄さん)▽ニュータウンは私が発案した(豊西寺住職・豊西栄一さん)▽窯跡から焼き物がいっぱい出てきた(高倉寺住職・仲村弘正さん)

国保料滞納で

06年に本紙が堺市を訴える

 2006年(平成18年)12月。堺市が国保滞納者に徴収猶予を連発して時効にしていることが発覚。議員らは黙認していたので、本紙が提訴。08年6月に「チャラにしない限り何回でも繰り返してもよい」と地裁が迷判決。しかし堺市はそのご徴収猶予をやめた。

 08年2月、木原市長が「営利目的で発行のコミュニティが…」と発言。本紙が名誉毀損で提訴。地裁は「読者は真に受けていません」と棄却した。

「堺風物詩百景」の原画展

泉北の人口が急激に減り出す

 09年(平成21年)泉北の人口が14万人を割った。翌年には地価が大きく下落。これ以降は狭山・金剛を下回るようになった。

 14年7月、府が泉北高速を南海に売却。近大医学部の泉ケ丘移転で、近大と府・市が〝公園潰し〞の基本協定を結ぶ。10月、ららぽーと和泉が阪和道和泉インター近くに出店。15年3月、府タウン管理財団(旧泉北開発センター)が解散。

 16年2月、本紙がパンジョホールで2回目の「堺風物詩百景」の原画展開く。本紙元専務(故人)が収集。

泉北の資料整理でNPO法人を設立

 泉北ニュータウンの開発当時から今日までの写真やパンフレット等を整理して末長く保存出来るようにしたり、貸し出しが出来るようにするため、19年5月に「NPO法人コミュニティ資料室」を本紙事務所内に設立。紙媒体から電子媒体へと移行していくのに先がけて、ホームページを19年4月にリニューアルした。

 現在、創業50年の生いたちを冊子にするための作業を進めている。5月頃にも発行の予定。部数はわずかなため非売だが、南図書館などに寄贈する。題して『泉北コミュニティ誕生前夜』

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記事中に掲載されている情報は掲載日(2021年3月26日)時点のものです。

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