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2015年までホームページ内に掲載していた「泉北ニュータウンの基礎知識」を再掲載しています。2023年1月加筆修正。
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や
山田池【やまだいけ】
高倉台4丁の高倉公園内にある池。満水時の面積0.79ha。
山の樋口池【やまのひくちいけ】
城山台1丁の山の樋公園内にある池。満水時の面積0.76ha。
山の樋公園【やまのひこうえん】
城山公園(「し」の項参照)の別称。
ヤングタウン【やんぐたうん】
三原台2丁にかつて存在した、勤労単身者のための町。高度成長期に地方から就職のために出てきた働く若者たちを受け入れるために大阪府が計画、昭和47年(1972年)3月、入居が始まった。
16ヘクタール(約5万坪)の敷地に単身者住宅中層10棟(約1500人)高層18棟(約8500人)の計28棟を建設、このうち雇用促進事業団住宅が約3千人、府公社住宅約2千人、民間企業棟住宅に約5千人。計1万人が入居できるという住宅群に勤労福祉センター(食堂、宿泊室など)、勤労青少年会館(交流・研修施設)、泉ヶ丘勤労者体育センター(いわゆる「ヤンタンの体育館」)も併設、「世界で初めての若者の町」というふれこみであった。運営委・管理には財団法人「青少年の町」があたった。
風呂やトイレは共同、各棟には家族で住み込んで若者たちの親代わりを務める「ペアレント」がいた。入居者同士の間で恋が芽生え、結婚にこぎつけたカップルも多数。体育祭などのイベントも活発に開かれた。
しかし、当初から入居者数は伸び悩み、特に企業棟は30%前後に低迷。年齢制限を緩和したり、公社棟では学生も入居できるようにしたり設備を改善するなど対策がとられたが、全体としては減少の一途をたどった。部屋が狭い、規制が厳しい等に加えて、社会そのものが高度成長から低成長に、急速に移行していたことが要因。民間企業棟では閉鎖するところが相次ぎ、やがて次々と分譲マンションに姿を変えていった。
そして、大阪府の行政改革に伴う改変で2001年3月末で財団法人「青少年の町」は解散。事実上、ヤングタウンはなくなった。府公社の建物が最後まで残っていたが、入居者は2010年末に退室させられ閉鎖。2011年、大谷学園が建物と敷地を落札、男女共学の「東大谷高校」を建設すると発表した。
2012年2月で建物の解体終了、2013年4月に東大谷高校が阿倍野区から移転、男女共学校となった。
※ 三原台回りバス路線にはしばらく「ヤングタウン」の名が残っていた。
ゆ
ゆうかり橋【ゆうかりばし】
竹城台1丁、コノミヤ泉ヶ丘店の前から竹城台1丁2番の公団側へかかる陸橋。欄干にユーカリとコアラの絵のプレートがついている。
ゆきやなぎ橋【ゆきやなぎばし】
赤坂台中学校近く、赤坂台~新檜尾台にかかる陸橋
ユニオンマート【ゆにおんまーと】
槇塚台近隣センター、近商ストアの道路を隔てた向かいにあった市場。1977年4月オープン。生鮮食品中心であったが、すでに同センターには近商ストアと専門店があり、近商ストアは「共倒れになる」と反対、調整が難航したといういきさつがある。しかし、1991年には閉店。その数年前から営業をやめる店が相次ぎ、一部の店しか営業していない状態が続いていた。閉店直後は再開されるとの話もあったが結局実現せず、2004年5月、跡地に有料老人ホームができた。
よ
養子池【ようしいけ】
泉ヶ丘駅前、現在のビッグアイ付近にあった池。ビッグバンの建設にともない、96年に埋め立てられた。また、70年代に大蓮公園にフィッシングセンターを建設するという構想があったころ、釣り堀用のニシキゴイやヘラブナを養殖していたのはこの池だった。
夜泣き地蔵【よなきじぞう】
放光寺(真言宗、美木多上177番地)の境内入口横にまつられているお地蔵さん。赤ちゃんの夜泣きにご利益があるといわれる。