た行【泉北ニュータウンの基礎知識・復刻版】

投稿者 コミュニティ

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2015年までホームページ内に掲載していた「泉北ニュータウンの基礎知識」を再掲載しています。2023年1月加筆修正。

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目次

田池【たいけ】

御池台2丁の御池公園内に昭和55年(1980年)に府企業局が開設した、ニュータウン唯一の公認釣り場。池岸の4か所に釣り場を設けている。ヘラブナ、コイなどが釣れる。満水時の面積1.47ha。

タウン管理財団【たうんかんりざいだん】

→大阪府タウン管理財団(「お」の項参照)

高倉公園【たかくらこうえん】

高倉台4丁にある公園。山田池を挟んで北側は自由広場、南側に遊戯広場が広がり、砂場にはキノコの家や石の山がある。池のそばにはレストコーナーも。面積35,000平米。

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高倉寺【たかくらじ】

高倉台2丁9番15号にある、真言宗の寺。705年、行基によって創建された、和泉では最も古い寺院のひとつ。家内安全、無病息災平安時代初期には弘法大師が参篭したり、その後高倉天皇が行幸したという由緒ある寺院。戦国時代には織田信長の根来攻めですっかり焼き払われたが、間もなく再建された。
現在、茶山台小学校そばにある墓地まですべて高倉寺境内であったというほど、かつては広い範囲を境内としており、七堂伽藍、49院があったという。現在残っている宝積院は同寺の本堂・客殿にあたるもの。昭和49年~50年(1974~1975年)には文久元年以来113年ぶりという改築工事が行われた。毎年春には御影供が行われる。
同寺の鐘は戦時中、政府の金属回収令によって無理やり供出されたが、その後たまたま官報を目にした住職が「皇室に関係ある鐘、大名の造った鐘、名工の造った鐘」は供出しなくてもよかったことを知り、あわてて岡山の直島まで行って取り返してきたといういきさつがある。すでに化学分析のための穴が開けられていたそうである。

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高倉台【たかくらだい】

昭和47年(1972年)4月に街びらきした住区。基本計画では「D住区」。この地区はもともと高蔵寺と呼ばれており、「陶器八景の寺」として有名な高倉寺宝積院がある。地名は、この寺にちなんで名付けられた。ここには、ニュータウン計画外の地域も含まれている。1丁~4丁からなり、面積98ヘクタール。2009年4月末現在4029世帯・9184人。住区内に泉北高倉小学校高泉北光明幼稚園、平和の園保育園がある。中学校は三原台中学校。

高倉台近隣センター【たかくらだいきんりんせんたー】

昭和47年(1972年)2月、オープン。核店舗は当初は丸高ストア(後に高島屋ストア)であったが1999年2月末に閉店。その後愛彩館高倉台店が開店したが2004年4月に閉店、以来空白期間があったが、2008年、高島屋から用地を購入したオリックスリビングが有料老人ホーム「グッドタイムリビング泉北泉ヶ丘」を開設。これに併設されるかたちでスーパー「オール・ワン」が開店した。
他に高倉台米穀店、高倉台鍼灸整骨院、高倉薬局、肉の神戸屋の個店と地域会館、障害者施設「こんぺいとう」、泉北高倉台郵便局などからなる。
※2014年、オール・ワンが閉店した。

高倉台小学校【たかくらだいしょうがっこう】

高倉台3丁5番1号に所在した堺市立小学校。昭和47年(1972年)4月に7クラス・216人でスタート。初代校長・大仲茂男氏。二代目の校長を務めた別所八十次氏は児童の詩や作文を集めた雑誌「はとぶえ」の編集で知られた。
昭和50年代中ごろに児童急増期を迎え、分離校として1982年に高倉台西小学校が開設された。この年、高倉台小は児童1058人、高倉台西小は852人であった。その後児童数は減少、2009年5月1日現在、11クラス・208人。
児童数減少にともない、今度は高倉台西小学校と統合して泉北高倉小学校(2014年開校)となることが決まり、2013年3月をもって閉校。校舎は解体され、2015年には新しい泉北高倉小学校の校舎が完成、暫定的に旧高倉台西小の校舎を使っていた泉北高倉小が移転した。

高倉台西小学校【たかくらだいにししょうがっこう】

高倉台1丁2番1号に所在する堺市立小学校。昭和57年(1982年)4月、高倉台小の分離校として新設された。開校当初の児童数852人。校章は画家で当時堺市指導主事だった長谷川望氏が考案した。09年5月1日現在、8クラス・221人。
児童数減少にともない、高倉台小学校と統合して2013年4月から泉北高倉小学校が発足。本校は2013年3月をもって閉校となった。

竹城温泉【たけしろおんせん】

竹城台3丁にあった風呂屋。初期の府営住宅には風呂がなかったので、宮山台・竹城台・若松台の各近隣センターには大阪府によって風呂屋が誘致された。ところが、竹城台の皆様温泉が1978年9月、突然閉業。前年に竹城台では新住法の時効を迎え、転売や業種変更が自由になったことによるものだったが、困った住民たちが「自治会風呂」というかたちで1980年7月に開業したもの。府が建設して自治会に無償貸与、自治会で運営するという方式だったが、しかし、オープン当初から赤字続きで自治会内部の混乱もあって8月には早くも閉鎖、翌81年3月、再開したが、経営は必ずしも順調でなかった。91年3月までに竹城台の府営住宅すべてに浴室がつき、竹城温泉も閉業、取り壊された。

竹城公園【たけしろこうえん】

竹城台3丁にある25.000平方メートルの公園。昭和46年(1971年)完成。旧・天原公園。
どこからどこまでが竹城公園なのかわかりにくいが、泉北高速をまたぐ松城橋に続く緑道の西側〜竹城台近隣センターあたりまでと思ってよい(と思う)。春は緑道沿いの桜が美しく、なかなかの穴場である。

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竹城台【たけしろだい】

昭和44年(1969年)から入居が始まった住区。基本計画では「B住区」。地名の由来は、開発前までは竹林が多かったことと、戦国時代に上神氏の所領で勢力をふるっていた東山、西山、小谷の3つの城のひとつ、「小谷城跡」があることから。他に桜木町、竹之台、竹山台といった候補もあった。当初計画戸数は4858戸。1丁~4丁からなり、面積106ヘクタール。2009年4月末現在4733世帯、9568人。

竹城台近隣センター【たけしろだいきんりんせんたー】

昭和44年(1969年)竹城台府営住宅の入居にあわせてオープンした近隣センター。竹城台市連マーケットを核とし、店舗付き住宅10店舗、公衆浴場、集会室などで構成されていた。市連マーケットは1987年末で閉店、その後丸紅が土地を取得してスーパー併設のマンションを建設、1993年4月にスーパーカナエ(カナエ竹城台店)が入った。しかし、カナエは99年3月で閉店、同年6月にパストが代わってオープン。そのパストは05年末に閉店、06年2月、再びカナエが開店したが、翌07年1月に閉店…という落ち着かない状態が続いた。07年5月にコノミヤ竹城台店がオープンして、今に至っている。
コノミヤの他、美容院(ブランシェ)、理容店(ニュータッチ)、酒店(竹城屋酒店)、米屋(神田屋米穀店)、寿司(いろは寿司)、クリー

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竹城台小学校【たけしろだいしょうがっこう】

竹城台3丁2番1号に所在する堺市立小学校。昭和44年(1969年)、宮山台小学校に続き、泉北ニュータウンで2番目の小学校として開校。初代校長・大本正秋氏。校舎の完成が遅れ、この年の1学期は宮山台小、宮山台中で過ごし、2学期から新校舎に移って名実ともに開校となった。09年5月1日現在、14クラス・370人。

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竹城台東小学校【たけしろだいひがししょうがっこう】

竹城台1丁10番1号に所在する堺市立小学校。愛称「たけひが」。昭和48年(1973年)4月、ニュータウンで10番目の小学校として開校。初代校長・今安徹氏。竹城台の人口が増えたために、既設の竹城台小学校の分離校として開設されたもの。竹城台1丁と土佐屋地区を校区とする。09年5月1日現在、9クラス・233人。

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たけしろ幼稚園【たけしろようちえん】

竹城台3丁2番2号に所在する幼稚園。昭和44年3月創立。学校法人慈光学園運営。味就園児のための「たけしろSUNSUNキッズ」あり。

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竹原大橋【たけはらおおはし】

泉北1号線と泉北高速をまたぎ、竹城台と三原台を結ぶ陸橋。全長100.8メートル。橋の北側が竹城台。南側は旧ヤングタウン跡地にできたマンションなどが建ち並ぶ三原台。

多治速比売神社【たじはやひめじんじゃ】

宮山台2丁3番1号に所在する神社。式内社(平安時代に編纂された延喜式に記載されている神社)であり、1100年以上の歴史をもつ神社。重要文化財に指定されている本殿は室町時代の再建で、屋根が桧皮葺で入母屋作りに千鳥破風と唐破風についたちょっと変わった建物であり、また軒周りに極彩色が施され、特に芭蕉の葉にかまきりの図柄の手挟みが珍しい、と評価されている。拝殿は昭和42年に造られた新しいもの。
この神社のある一帯は古くから「荒山(こうぜん)」とよばれており、この神社も別名「荒山の宮」、付近は荒山公園となっている。祭神は多治比売命で、これは日本武尊の姫君の弟橘姫命ではないかといわれるがはっきりしない。1500年前の須恵器の窯跡が宮山台2丁の、同神社の所有であった山林で発見されている。
秋祭りには和田、伏尾、平井、太平寺、大庭寺のだんじりとと野田尾・小代の子どもみこしだんじりが宮入する。

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田園大橋【たぞのおおはし】

泉北1号線と泉北高速鉄道をまたぎ、三原台と竹城台をつなぐ橋。全長48メートル。

田園公園【たぞのこうえん】

三原台2丁にある公園。堺市の管理。泉ヶ丘プールを中心に、北側には多目的グラウンド、東側に緑地が広がる。中央にポプラ並木の緑道が通る。昭和50年(1975年)開設、面積79,263㎡。

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大一温泉【だいいちおんせん】

宮山台近隣センターにあった風呂屋。初期の府営住宅には風呂がなかったので、宮山台・竹城台・若松台の各近隣センターには大阪府によって風呂屋が誘致されたが、府営住宅に浴室が増設されるにともない、入浴客が減少、いずれも廃業した。大一温泉は最後の風呂屋となり、1992年8月3日閉店。跡地はガソリンスタンドに。

地域会館【ちいきかいかん】

各地区の近隣センターにあり、住民活動の拠点となっている施設。
もともと「近隣センター集会所」だったものが1984年4月1日、府企業局から堺市に移管され、同時に市から各校区の連合自治会に無償貸与され、地元運営の「自治会館」となった。サークル活動やボランティア活動のほか、塾、文化教室などに利用されている。
2000年6月に自治会館の建物が堺市から校区自治連合会に無償譲渡され(土地は市が所有)、呼称も「地域会館」に変わった。このときから維持管理や補修も地元が負担することになったが、大規模な改修や立て替えには市から補助金が出るため、改修工事をするところが相次いでいる。なお、一部の地区は「自治会館」の名称を現在も引き続き使っている。

ちびっこ広場【ちびっこひろば】

昭和53年12月泉北開発センター(当時)と専門店街が協力で設置した、泉ヶ丘南専門店街1階にあった子供向けの遊び場。人工芝を敷き詰めた上にロープネットやすべり台、通り抜けのできるステージなどを置いた。雨の日でも安心して遊べると好評。1994年10月にリニューアル。それまでの木製遊具が金属や合成樹脂製のものになった。改装には3千万円かかったといわれる。

その後、2014年8月に泉ヶ丘駅南エリアは、府タウン管理財団から南海電鉄に売却され、2015年9月、ちびっこ広場のリニューアルに伴い遊具は撤去された。10月下旬に、プレーコーナーや絵本コーナーを常設された新しい広場に変わった。

茶山公園【ちゃやまこうえん】

茶山台3丁24番。近隣センターそばにある面積45,000㎡の公園。公園南側にグラウンドがある。写真中央の急な階段(通称・百階段)をあがると、茶山台小学校がある。

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茶山台【ちゃやまだい】

1) 昭和46年(1971年)4月に街びらきした住区。基本計画では「E住区」。「茶山台」の名称は、かつてはこの地が「お茶山」と呼ばれ、茶畑などがあり、近隣の豪族や名士たちが月見や花見の宴をはり、野だてを楽しんだことからきている。地名候補としては他に「青山台」「青葉台」「添尾台」などもあったという。当初計画戸数は3369戸。1丁~3丁からなり、面積89ヘクタール。2009年4月末現在3283世帯・7035人。住区内に泉北園保育園茶山台幼稚園茶山台小学校がある(中学校は若松台中学校)。

2) 南海バスの停留所。泉ヶ丘駅発「槇塚台まわり」と、同「若松台まわり」が通る。「○○台○丁目」などという停留所は多いが、単に「茶山台」である。このような大胆なネーミングはほかにない(と思う)。

茶山台近隣センター【ちゃやまだいきんりんせんたー】

茶山台の中心的施設として、昭和46年(1971年)8月オープン。ピーコックを核店舗に、郵便局、地域会館、個店として豊田薬局、地域包括支援センター、ナイスワン、河知音楽院、ひまわり歯科、茶山台整骨院などで構成。しかし、平成22年(2010年)3月、38年間営業していたスーパー「ピーコック」が閉店。しばらくそのままになっていたが、2014年10月現在、跡地に老人ホームを建設予定で解体工事が行われている。
地域会館は2011年4月、リニューアルオープンした。

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茶山台小学校【ちゃやまだいしょうがっこう】

茶山台2丁5番1号に所在する堺市立小学校。昭和46年(1971年)開校。児童数はピーク時には1000人を超えていたが2009年5月1日現在、13クラス・340人。

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つくしの公園【つくしのこうえん】

2012年8月、あゆみ野3丁目4番に開設された公園。敷地25000平方メートル。災害時に緊急避難・一時避難地として利用できるよう非常用マンホールトイレ、防災シェルター、かまどベンチなどを設置。多目的広場はドクターヘリの中継点としても利用可。「ミストの森広場」や遊具のコーナーもある。

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辻之【つじの】

石津川中流東方、陶器山丘陵北部に位置する。明治22年~現在の大字名。はじめ西陶器村、昭和30年泉ヶ丘町、同34年からは堺市の大字。辻之の一部は昭和46年高倉台3~4丁・三原台、同50年高倉台1~4丁となった。

貞正塚地蔵【ていしょうづかじぞう】

泉北南線と泉北3号線が交わる庭代台南交差点の角にあるお地蔵さん。南北朝時代にこのあたりの領主だった森貞正公にちなんだもの。かつては現在の庭代台近隣センター近くにあったが、ニュータウン造成で立ち退かされ、西方寺(泉田中)に預けられていた8年間を経て、現在地に。地元では「てしおづか」ともよばれる。庭代(にわだい)家が代々守り続け、毎年8月には地蔵盆も行われる。

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帝塚山学院大学【てづかやまがくいんだいがく】

晴美台4丁2番2号に所在する大学。学部は人間科学部(情報メディア学科、心理学科、食物栄養学科)とリベラルアーツ学部。
大正年間創立の大阪ではよく知られた私学であるが、泉北ニュータウンとのかかわりは 昭和52年(1977年)初め、晴美台の土地を府企業局から購入することが決まってから。
昭和58年(1983年)に泉ヶ丘中学校、高等学校が開校。さらに、61年(1986年)に同学院短大が大阪市住吉区から移転開校。平成10年4月、泉ヶ丘キャンパスに4年制大学(人間文化学部)開設、翌年短期大学部廃止。平成19年(2007年)から男女共学、大学院人間科学研究科 臨床心理学専攻(専門職学位課程)開設。

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天高大神【てんたかおおかみ】

豊田地区の田んぼの中にあるお稲荷さん。全国各地にあるお稲荷さん同様、京都の伏見稲荷大社が総本社で、このお稲荷さんには豊田や上神谷の各地区、美木多、深阪などから約280人が講に参加している。鳥居は少しずつ増えて現在45本。2009年夏にすべて新調された。2号線沿いにあるお風呂屋さん「極楽湯」の南東約150メートル。

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展望台【てんぼうだい】

かつて泉ヶ丘駅近くの丘にそびえ、緑の間から顔を出す三角形が泉北ニュータウンのシンボルとして親しまれた鉄骨製の展望台。
tenboudai.jpg建設は、千里ニュータウンにも展望台があったことから、企業局が早くから検討していたところ、八幡製鉄が寄贈することになって実現。建設地は標高115メートル。展望台は高さ約20メートル、上部幅14.4メートル、下部幅6.2メートル、展望室の広さ85平方メートルで、総工費約2000万円。昭和45年完成、46年1月から一般公開された。泉北センターが管理にあたり、昭和46年には売店も展望台横に設置された 。
晴れた日には遠く臨海工業地帯までが見渡せる展望台は人気で、訪れる人が絶えなかった。当時はパンジョもまだなかったころで、休日には千人ほどの人が訪れたという。泉北音頭の歌詞にも登場、スケッチに最適のスポットにもなった。
だが、次第に訪れる人も少なくなり、ガラスが割られるなどいたずらが相次いで、89年には一時閉鎖の憂き目にあったことも。90年には売店も閉鎖された。そして、99年1月、ビッグバン建設にともない、取り壊されるに至った。
なお、展望台といっても付近の団地への配慮から、望遠鏡は設置されなかった。

トナリエ 栂・美木多【となりえ とがみきた】

2017年から始まった栂・美木多駅前の再開発でガーデンシティ撤去後に建てられた新商業施設。2019年4月26日に開業。3階建ての2階部分が駅と直結。2017年7月の閉店から1年10ヶ月ぶりにダイエーが「イオンフードスタイル栂・美木多」として帰ってきた。1階はクリニックモールで3階は専門店と飲食店のフロア。

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陶器山トンネル【とうきやまとんねる】

泉北ニュータウンと狭山ニュータウンを直結するトンネル。泉北タウン内のH5号線と狭山タウン内の東西道路(金剛泉北線)をつなぐ。トンネル開通と同時に金剛泉北線~310号線との接続部分も開通、310号線~泉北H5号線まで1700メートル全線が開通することになった。
両ニュータウンは眼と鼻の先にありながら、陶器山が道路を遮断、いったん泉北中央線に出て迂回するという不便な状態が続いており、交通渋滞も深刻だったことから、地元の要望を受けて昭和58年(1983年)府企業局が着工、昭和61年(1986年)6月に開通した。長さ60メートル、幅員19メートル、4車線。工事は陶器山をいったん切り開き、トンネルを築造したあと、その上に土を埋め戻して植栽し、山の原状回復をはかるという方法をとった。付近住民は「トンネルができると交通量が増え、住環境が破壊される」と反対し、府公害審議会に調停を申請していたが、昭和60年12月に環境整備を盛り込んだ調停案で和解が成立した。トンネル開通後、南海バスはただちに陶器山トンネルを通る泉ヶ丘駅~狭山タウンの路線バスを運行、翌1987年には現在のコミュニティバス(泉ヶ丘~狭山タウン~金剛駅)の運行を開始した。

陶器山七不思議【とうきやまななふしぎ】

泉北ニュータウンと狭山ニュータウンの間に横たわる陶器山付近には弘法大師にまつわる伝説が残っており、「陶器山七不思議」と呼ばれる。以下のようなものであるが、ニュータウン開発にともない、これらの伝説をうかがわせるようなものは残っていない。

○「千畳敷」(せんじょうじき) 高倉寺の南方500メートルのところの小高い山の上に赤茶けた広場があった。ぐるりは松林がうっそうと茂っていたが、ここだけ草も生えずきれいな台地だった。その昔弘法大師が護摩を焚いて天下泰平五穀豊穣を祈られたところと伝えられていた。

○「黄金塚」(こがねづか) マキ塚とも呼ばれたところで千畳敷の南方100メートルの小高い丘の上に黄金が埋められてあり、夜になると光を放ったという。また、一説に弘法大師が経巻をこの丘に埋められたことから、巻塚(まきづか)と呼ばれていた。このマキ塚に後世、宝キョウ印塔が建てられ、灯明をともして灯台の用をなした、と伝えられた眺望絶佳なところであった。

○「梵字ヶ芝」(ぼんじがしば) 黄金塚の東方500メートルの地点で山の中腹に弘法大師が手に持った楊杖(しょうじょう)で地面に「かんまん」という梵字を掘られた。10メートル四方で深さが30センチくらいあり、千百年以上も経過しているのに少しも埋もれず草や笹も生えず、また字の姿かたちも崩れず、中にはきれいな水が溜まっていた。これが七不思議のナンバーワンで、ここにお参りして、溜まった水を飲めば難病も治ると、たくさんの人がお参りしていた。そして、誤って付近の松の木を切った人がたちまち腹痛を起こし、その場に倒れたことも実際にあった。

○「笹無谷」(ささなしだに) 梵字ヶ芝より東方100メートルほど山道を登れば天野街道(狭山から天野山へ通じる河泉国境の道路)があり、道路の東側が河内、西側が和泉である。この和泉側一帯の数百メートルの間には笹が一本も生えず、東の河内側は一面笹だらけであった。昔、弘法大師がここを通られたとき、風が吹いて笹の音がバサバサとやかましく、同行の人の話が聞こえないので、お大師さんがお加持なされたら以後、笹が一本も生えなくなったと言い伝えられる。

○「猫坂」(ねこざか) 昔、この地方に大飢饉があったが、当時は交通の便もなく、遠方からの食糧の輸送が困難であったため、草の根をしがみ、木の実を食べて飢えをしのいでいた。犬や猫にまで食料を与えることができず、飼い猫をみな山へ捨て、捨てられた猫はみな餓死した。その後、毎年大みそかの晩に、この坂のところにその猫たちが集まってうらめしそうに泣きわめいた。ちょうどその時、弘法大師がここを通られ、かわいそうにと御回向(ごえこう)をなされたら、それ以後鳴かなくなったと言い伝えられる。

○「舟の型」 猫坂の南方500メートルの地点、天野街道の道端の山の中にちょうど舟型のくぼみがあった。昔、弘法大師が支那(中国)から舟に乗って日本に帰って来られて高野山へ登られるとき、ここに舟を乗り捨てられたが、舟は朽ちても舟の型だけは残ったと言い伝えられる。

○「大師井戸」 舟の型の南方500メートルの地点にあり、上神谷(にわだに)の畑村やおく山村の近くである。この地方一帯は井戸を掘ってもあまり水が湧かないところだが、弘法大師がここを通られた時、のどが渇いたので里人に一杯の水を所望されたが、御坊に飲んでいただけるような水はありませんと断られたので、大師が手に持った楊杖を地面に差し込むとたちまち冷たい清水がこんこんと湧き出したと伝えられる不思議な井戸である。

栂【とが】

①明治22年~現在の大字名。泉北2号線と原山台の間に所在する。旧上神谷8か村の中で、ニュータウン造成後、生活に最も変動のあった村の一つといわれる。古く鎌倉時代は豊田村の一部として若松荘といい、京都仁和寺の荘であったが、江戸中期以降、豊田他7か村は伯太藩渡辺丹後守の領地となり、栂村だけは、本藩が千葉県関宿にある久世大和守領となり、堺市伏尾に陣屋のあった久世領に属した。
昭和43年、一部が原山台5丁、同48年原山台1~5丁・庭代台1~4丁、同53年御池台1~5丁となる。

②南海バスのバス停名。泉ヶ丘~鉢ヶ峯行き路線にある。関西電力そば。

栂大橋【とがおおはし】

栂美木多駅のすぐ東側にかかり、桃山台と原山台を結ぶ全長71.5メートルの陸橋。下を泉北高速と泉北1号線が通る。橋の南側が原山台(ダイエー側)、北側に南区役所がある。昭和48年(1973年)5月竣工。

栂センタービル【とがせんたーびる】

栂美木多駅前(原山台2丁)に所在する建物。1973年12月オープン。このビル内に専門店街(ガーデンシティ=旧サンクール栂)や事務所、市役所中出張所(現在はない)などが入り、ダイエー栂店とあわせて栂地区センターを形成していた。当初は泉北開発センター(後に泉北センター、いまはタウン管理財団)の管理であったが、空き店舗も多く、80年代にはすでに活性化の必要性が言われていた。
2003年3月に泉北センターと府企業局が共同で栂センタービルとセンタービル裏の駐車場を民間に売却、泉北センターは栂センタービルの賃貸事業から撤退。駐車場は立体化して民間が運営する24時間営業の「栂セントラルパーキング」となり、空いた土地に高層マンション(グランフォレスタコート栂・美木多)が建設された。専門店街(サンクール栂)も新しいテナントを入れ、2004年4月、ガーデンシティの名称でリニューアルオープンした。2017年、栂・美木多駅再開のため建物は取り壊された。

栂文化会館【とがぶんかかいかん】

ニュータウンで初めての本格的なホールを備えた文化施設としてとして昭和59年(1984年)栂駅前にオープン。敷地5300平方メートル、鉄筋3階建て、延べ床面積4870平方メートルで、700人収容の大ホールのほか、料理室、陶芸室、図書室(南図書館栂分館)、音楽室などがある。このホールを拠点として「泉北で音楽を聴く会」が発足、一流のプレイヤーの音楽を低料金で、を合言葉に、コンサートや新人演奏会を開催するなど活動した。ホールの緞帳には桜井神社に奉納される郷土芸能「こおどり」を描いた絵(長谷川望さん作)があしらわれている。

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栂・美木多駅【とがみきたえき】

昭和48年(1973年)12月、泉北高速鉄道3つ目の駅として開業。桃山台2丁1番1号。島式ホームで改札はホームの上にある橋上駅。開業に際して、駅名は当初、「栂駅」と予定されていたが、実際の駅の建設地が美木多地区に属していたことから美木多校区連合自治会が「美木多」駅とするよう要望。これに対して栂を含む上神谷校区連合町内会が反対、府や市も調整に難航ーという駅名あらそいがあった。結局、両者が折れ合って、「栂・美木多」で合意。駅名としては珍しい「・」のある名前となっている。ただし、「・」は半字分とし、二つの駅のような錯覚を避けることとしている。駅の開業と同時に栂地区センターもオープン。翌年3月にはダイエー栂店が開業した。改札から続く歩道橋には当初屋根がなかったが、昭和52年に設置された。南区役所の最寄り駅。2008年度の1日平均乗降客数24141人で、泉北高速の駅では最も少ない。

となかい公園【となかいこうえん】

竹城台3丁2番(竹城台郵便局近く)にある児童公園。面積0.25ha。

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トリヴェール和泉【とりゔぇーるいずみ】

和泉ニュータウンの愛称。3つの緑を意味するフランス語。北部(いぶき野)・東部(はつが野・まなび野)・西部(あゆみ野)の3つのブロックから成るため。くわしくは「和泉ニュータウン」参照。

とんぼ公園【とんぼこうえん】

城山台2丁3番(近隣センター近く)に所在する児童公園。入口にとんぼの絵のプレートがある。面積0.38ha。

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2015年までホームページ内に掲載していた「泉北ニュータウンの基礎知識」を再掲載しています。2023 […]

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記事中に掲載されている情報は掲載日(2023年2月1日)時点のものです。

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