さ行【泉北ニュータウンの基礎知識・復刻版】

投稿者 コミュニティ

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2015年までホームページ内に掲載していた「泉北ニュータウンの基礎知識」を再掲載しています。2023年1月加筆修正。

まちがい等ありましたらご連絡ください。>>コミュニティ編集部

目次

さいかち橋【さいかちばし】

晴美台近隣センター内の郵便局そばから晴美台府営住宅側に至る陸橋。近隣センター側はらせん階段になっており、なかなか風情があります。一度上ってみてください。

堺自然ふれあいの森【さかいしぜんふれあいのもり】

堺市南区畑1740番地に所在する堺市立の公園施設。2006年4月開園。OSS・EPRグループが指定管理者として堺市の業務を代行、NPO法人いっちんクラブ(ボランティアクラブ)と提携してクラフト教室、農作業体験などの里山体験プログラムを実施している。面積17万2千㎡。
元々堺市が墓地の拡張用地として買収していた土地だが、景気悪化で墓地需要が冷え込んだこともあり、ふれあいの森に転用したもの。
山林を中心に田畑があり、ホタルが生息する第2豊田川も流れるという環境を考慮し、できるだけ人の手を加えず、自然を生かした公園となっている。拠点施設「森の館」をふれあいの森入口付近に設け、事務室、倉庫、トイレのほか、学習会や工作などに使える多目的室(約200㎡)がある。

堺西高校【さかいにしこうこう】

桃山台4丁16番1号に所在する府立高校。明治40年、堺市立女子手芸学校創立。昭和26年、堺市立堺高校と改称。昭和50年、現在地に新校舎完成、移転。昭和51年、男女共学となる。昭和54年1月1日、大阪府に移管、大阪府立堺西高校となった。
全日制普通科高校であるが、2010年から「体育・芸術表現創造専門コース」が設けられている。

堺東高校【さかいひがしこうこう】

昭和47年(1972年)4月、晴美台1丁1番2号に75番目の府立高校として開校。初代校長・井内嘉美氏。校内に100本を越える桜が植えられ、春は桜の名所に。

平成13年度に創立30周年を迎え、平成14年4月から総合学科の高校として再出発した。平成15年5月には、3つの実習室を備えた看護実習棟が完成。平成18年度から「知的障害生徒自立支援コース」が設置された。

堺酪農団地【さかいらくのうだんち】

堺市南区畑1627番地。泉北ニュータウン開発計画を機に、23戸の酪農家が結集して昭和44年に堺市畜産農業組合を結成、安定した酪農経営を行う場所として建設した。

45ヘクタールの広大な地域に飼料畑、牛舎、住宅、放牧場、運動場、倉庫、飼料配合センターなどを設置。
建設当初の計画では「大正池を中心に観光牧場的な性格も備える」予定だったようだ。

昭和46年から経営を開始。2010年現在は15軒の酪農家が約1000頭の牛を飼っており、堺市内の乳牛の半分はこの酪農団地の牛。観光牧場ではないが、近年はコスモスやヒマワリを植え、期間限定ではあるが一般開放も行っている。

逆瀬川【さかせがわ】

槇塚台の南側に位置し、大阪狭山市と隣接する地区。標高100mで、堺市で最も高い。
地区の中央に小さな川があり、釜室からの新しい道路ができるまでは峠を越して村に入ったが、川が西北方向から西へ方向を変えて奥谷池に入ったので、「逆瀬川」の地名が生まれたのかもしれない、と言われる。

櫻井神社【さくらいじんじゃ】

堺市南区片蔵645に所在する神社。割拝殿は堺市内唯一の国宝に指定されている。延喜式内の神社で推古天皇5年(598年)の創建と伝えられる。上神谷八幡宮とも称せられ、応神天皇、仲哀天皇、神功天皇を祀っている。その昔、上神、和田、桜井など近郷の武将らの尊敬を受け、社殿は荘厳を極めたが、天正年間、織田信長の根来寺征伐の際、僧兵に焼かれる。現在の本殿は明治14年の造営である。
毎年10月に境内で奉納される郷土芸能「こおどり」発祥の地はこの国神社で、室町時代から伝えられてきた。日露戦争ごろから中断になっていたが、昭和30年にこおどり保存会を結成し、今日まで維持されている。「こおどり」は現在、無形文化財に指定されている。毎年1月9~11日は十日戎(上神谷えびす)でにぎわう。
秋祭りには片蔵、釜室、泉田中、豊田、栂からだんじりが宮入、連合引きも見られる。

さくら橋【さくらばし】

竹城台センター近くにある陸橋。欄干のプレートに桜の絵柄があしらわれている。

さつき橋【さつきばし】

鴨谷台3丁にある陸橋。写真で、手前は3丁3番UR団地側、橋のむこうは3丁2番公社団地。

さるすべり橋【さるすべりばし】

泉ヶ丘駅前、コノミヤ前のゆうかり橋から続く緑道の、南保健センターそばにかかる陸橋。昭和46年竣工、と橋に記載。

サンクール栂【さんくーるとが】

栂美木多駅前(原山台2-2-1)にあったショッピングセンター(専門店街)。1973年12月オープン。

2004年4月、ガーデンシティの名称でリニューアルオープンした。

サンピア【さんぴあ】

光明池駅前(堺市南区鴨谷台2丁2番1号)に所在するショッピングセンター。昭和54年(1979年)4月27日オープン。

堺・和泉両市の小売業者が協同建設、運営している地域密着型の商業施設である。サンピアは「太陽の桟橋」の意。

1階正面はバスターミナルとつながり、2階にはひと足早く1977年10月にオープンしていたダイエー光明池店につながる通路を設置。
地下にパチンコ店、1階は「暮らしのフロア」2階が「ファッショナブルフロア」、3階は現在、インターネットコーナーなど。
1999年4月1日には「サンピア2番館」がオープン。こちらはスポーツクラブのコナミと、クリニック、学習塾などで構成されている。

ざいふり橋【ざいふりばし】

茶山台のビッグバン裏手のほうから2丁団地側にわたる橋。泉ヶ丘地区の緑道の橋には木の名前がつけられており、この橋もザイフリボクという木の名前から。バラ科の木だそうだ。

敷物団地【しきものだんち】

→日本敷物団地(「に」の項)参照

しまうま公園【しまうまこうえん】

茶山台3丁にある児童公園。堺市の管理。面積0.41ha。
藤棚がある

城山大橋【しろやまおおはし】

泉北1号線をまたぎ、竹城台と茶山台を結ぶ。全長70.2メートル。

城山台【しろやまだい】

光明池地区南端に位置する住区。基本計画では「P住区」。昭和51年(1976年)8月30日公示、昭和52年(1977年)12月入居開始。当初計画戸数は2784戸。地名の由来は、南朝系の城跡である和田城跡があったことから。和泉市の光明池と隣接しているため、当初は光明台と呼ばれることになっていたが、これは公団光明池ニュータウンに譲った。1丁~5丁からなり、面積121ヘクタール。2009年4月末現在2997世帯・7925人。

城山台近隣センター【しろやまだいきんりんせんたー】

1978年(昭和53年)5月、城山台2丁にオープン。当初から核店舗はスーパー「ライフ」。
そのほか個店としてライスポイントしろやま、つちや書店、城山薬局、城山台整骨院、メディカルエステ・アイリィ、城山台サイクル商会、城山台Do(エスコープの店)、ヘアサロンNAITOU、松岡歯科、にしがいと内科クリニック、立志館ゼミナールなど。ほか城山台郵便局、地域会館から成る。

城山台小学校【しろやまだいしょうがっこう】

城山台1丁20番1号に所在する堺市立小学校。
昭和52年(1977年)12月、城山台1丁に開校。開校時は児童34人、職員9人。翌年5月に実施した修学旅行は先生と生徒あわせて13人だったという。児童数はピーク時には1000人を超えていたが2011年5月1日現在、17クラス・483人。

新池【しんいけ】

宮山台2丁の荒山公園内にある池。満水時の面積1.85ha。

しんこおろぎばし【しんこおろぎばし】

桃山台4丁、阪和自動車道をまたぐ陸橋。こおろぎばしとつながっている。写真では、手前がこおろぎ橋側。橋のむこう、左手に埋蔵文化財センターがある。

新住宅市街地開発法【しんじゅうたくしがいちかいはつほう】

工事完了広告の日から10年間は勝手に土地を転売したり住居の用途変更をしてはならないという法律。新住法。泉北ニュータウンでは昭和50年代に入って各地で新住法が続々と時効を迎えるようになり、街の姿が少しずつ変わり始めた。このため、従来の環境を維持していくために住民が自主的に話し合い、建築制限をする「建築協定」を結ぶところも出てきた。

新檜尾公園【しんひのおこうえん】

光明池駅のすぐ北側、新檜尾台1丁にある公園。面積11ヘクタール。
当初は新檜尾台が「花代台」になる予定で、この公園も花代公園になるはずだったが、結局新檜尾公園になった。桜の名所として親しまれているが、新緑のメタセコイヤ並木も美しい。また、あまり知られていないが、ヤエザクラが数十本植わっているスポットもあり、変化に富んでいる。

園内には親水池もあるが、一時はごみだらけになっていて、1998年頃、読者から本紙に苦情が来たこともある。その後「気にくわん」のコーナーで取り上げたところ、すぐに清掃され、美しい池になった。現在は、放課後や休日にはザリガニ釣りを楽しむ小学生でにぎわっている。

新檜尾台【しんひのおだい】

昭和54年度から入居が始まった住区。地名の由来は、かつて檜尾の山村であったことから。当初は「花代台」の予定だったが、地元美木多校区から市に変更してほしいとの陳情が出た。当初計画戸数は3059戸。1丁~4丁からなり、面積75ヘクタール。2009年4月末現在3839世帯・10023人。

新檜尾台近隣センター【しんひのおだいきんりんせんたー】

昭和54年(1979年)4月、新檜尾台の入居開始とほぼ同時にオープンした。当時は白壁の建物で屋根には鐘つき堂や風見鶏がついたモダンな造りが人目を引いた。府から用地を購入した10商店が協同で設計・建築を依頼したものでいわば協同建設。赤坂台近隣センターで入店者から「欠陥店舗だ」とのクレームが出たことで懲りた府が以後はこの方式にしたもの。核店舗は当初はスーパーカナエ。カナエが2007年1月に閉店したあとはサンエーが営業している。
サンエー新檜尾台店のほか、上野薬局、うを政(寿司・会席)、成美書房、文化喫茶・結、保富歯科医院、こころん(第二泉北ハウス、喫茶)、パンダフル(第三せんぼく作業所。パンの販売と宅配)さかて整骨院、ココモ(バイク)、昭和米穀店、フランス屋(クリーニング)、サリー美容室、理容・新檜尾台が営業している。他に郵便局、地域会館、福祉会館。

新檜尾台小学校【しんひのおだいしょうがっこう】

新檜尾台3丁7番1号に所在する堺市立小学校。昭和54年(1979年)4月、児童数223人でスタート。児童数はピーク時には1500人を超えていたが09年5月1日現在、21クラス・556人。

ジャンボ迷路【じゃんぼめいろ】

毎年秋に西原公園(02年は原山公園)で開催される市民手作りの巨大迷路。
昭和61年(1986年)、地域に児童館建設を求める運動をしていた親たちの有志が企画したのが始まり。2012年には第27回が開催された。業者に頼まず、すべて住人らボランティアの手作りで、ブルーシートやロープを使って全長4~5キロの巨大迷路をつくる。フリーマーケットやコンサートなども同時に開かれる人気のイベントで毎年1万人程度が集まる。国の「こどもゆめ基金」の助成を受けている。
2015年に終了。

ジョイパーク【じょいぱーく】

三原台1丁1番3号に所在するショッピングビル。
2000年(平成12年)11月15日、泉ヶ丘駅前(三原台1丁)の元ホテル用地に、三井建設が大型ショッピングセンター「ジョイパーク」を建設。店舗面積1万5千㎡の4階建てで、1~3階が店舗、4階と屋上に約320台分の駐車場を設置。スーパーやトイザらス、八千代ムセン(その後閉店、現在はしまむら、アヴェイルなどが入っている)、専門店などが入店。

2002年(平成14年)10月には、1階に全国の有名ラーメン店7店を集めた「泉ヶ丘ラーメン劇場」がオープン。
テーマ型のラーメン集合施設は関西初で、メディアの注目度も高く、オープン当初は長蛇の列となったが、2006年(平成18年)2月、閉店した。

成就地蔵尊【じょうじゅじぞうそん】

茶山台小学校と茶山台幼稚園の間の緑道わきにまつられているお地蔵さん。

昭和51年(1976年)7月、当時茶山台小学校PTAの副会長をしていた野村徳弥さんら地元有志が「団地の子供たちにうるおいを」とお地蔵さん建立を提案。話を聞いた鉢ヶ峯の加登石材商店が「いい話だ。うちで作ってあげよう」と特別に制作して寄贈してくれたもの。青みかげ石の一本彫で、40センチの高さの台座に80センチの高さの本体。名前は、昔その付近に高倉寺49院のひとつ、成就院があったのにちなみ、高倉寺の仲村弘正住職がつけた。台座の字は茶山台小学校の中野校長の筆になるもの。建立式はこの年7月3日に盛大に行われ、加登石材商店には感謝状が贈られた。これ以後も毎年、地蔵盆が開かれるなど親しまれているが、一方ではさい銭泥棒などの被害も起こっている。

須恵器【すえき】

5世紀(古墳時代中期)~10世紀(平安時代)にかけて生産された陶質土器。1100度以上の高温で焼き上げられるため硬質で、色は青灰色。朝鮮半島から伝わった。現在泉北ニュータウンとなっているあたりはかつて「陶邑(すえむら)」と呼ばれた須恵器の一大生産地であり、ニュータウンの造成に先立ち、大阪府教育委員会が発掘調査にあたった。この結果、多数の窯跡や須恵器が出土、出土品を収蔵・展示するために大阪府立泉北考古資料館(当時。現在は堺市立泉北すえむら資料館)が建設された。また、2005年にはこれら陶邑窯跡群出土の遺物のうち2585点が重要文化財に指定されている。

すえむら資料館【すえむらしりょうかん】

→泉北すえむら資料館

すずむし橋【すずむしばし】

御池台3丁と1丁の間にかかる長い陸橋。地域会館の横を通り、ほたる橋、あかとんぼ橋とT字型につながる。写真で橋の向こう、右手に見えるのが地域会館。

スーパーQA【すーぱーきゅーえー】※閉店

桃山台近隣センターの核店舗となるスーパー。

ジョイフルももやま(旧桃山台市連マーケット)が1999年にリニューアル、スーパー形式で生まれ変わったもの。1階が食品スーパー、2階が専門店街。店名は「品質がA(ええ)、安さがA(ええ)など9つ(Q)の良い(A)でお客様のニーズに応える」というモットーから名付けられたそうだ。

成晃ひかり幼稚園【せいこうひかりようちえん】

城山台1丁8番3号に所在する幼稚園。昭和57年(1982年)開園。学校法人泉北成晃学院が経営。

青少年の家【せいしょうねんのいえ】

南区片蔵32番地に所在する堺市立の施設。1986年6月オープン。

もともとあった青少年センター泉ヶ丘分館のグラウンドに建設されたもので4階建て2400平方メートル。2階に上神谷会館を併設する。青少年の活動のために建設されたが、中高年も使用できる(ただし料金面で差がある)。
プレーホール(180席)、音楽室、工芸室、美術室、研修室、茶華道室、活動室などを備える。特に「学習室」は近隣施設にはなく、貴重な存在。また、ここで練習しているバンドなども多い。毎年開かれる「青少年の家のつどい」ではここを拠点とするサークルなどが日頃の活動の成果を披露する。
2008年から大阪YMCAが指定管理者として運営にあたっており、それまで25歳以下が中心メンバーの登録グループは施設利用が無料だったが、有料(一般の半額)になった。

成美高校【せいびこうこう】

城山台4丁1番1号に所在する大阪府立高校。上神谷高校と美木多高校が統合し、平成15年(2003年)4月に普通科総合選択制の学校としてスタートした。校舎は美木多高校時代のものを使用。校名の由来は論語の「君子は人の美を成す。人の悪をなさず」による。
中国帰国生徒が多く在籍し、中国文化交流クラブがある。同クラブによる中国舞踊や獅子舞はイベントなどで大人気である。

泉北1号線【せんぼくいちごうせん】

ニュータウンの真ん中を東西に貫く幹線道路であり、光明池~泉ヶ丘~浜寺石津町に至る府道の通称。1976年7月5日、全面開通(先に南行きが開通していたが、北行きも開通したのがこの年)。
従来、堺狭山線(浜寺石津町~泉ヶ丘)は泉北1号線、和泉富田林線(光明池~泉ヶ丘~富田林へ続く道路:現在は富田林泉大津線)は泉北中央線と呼ばれていたが、一般的には「泉北高速鉄道と並行して走る道路が泉北1号線」と思われていた。本紙では光明池~泉ヶ丘間は泉北中央線と表記していたが、読者から「泉北1号線のまちがいでは」と電話を受けることもあった。それでも「泉北中央線」と表記していたが、1989年に堺市道路管理課が市民から道路の愛称を一般公募。この結果、浜寺石津町~光明池が「泉北1号線」となった。一般に浸透していた呼び名がそのまま採用されたかたちだ。これ以後、本紙紙面でも「浜寺石津町~光明池」は泉北1号線と表記することにした。
なお、大阪府は1988年に府道に「路線番号制」を導入、これによると堺狭山線は府道34号、和泉富田林線は府道38号。つまり、一般に親しまれている「泉北1号線」は府道的には府道34号と府道38号の一部である。
準高速道路であり、自転車・歩行者は一部の区間(鴨谷橋~光明池駅間は歩道があるので通れる)を除いて通行禁止である。また、ニュータウン内では既存道路とはすべて立体交差となっている。 道路幅は泉ヶ丘駅付近の最も狭いところで54m、最も広いところで82メートル、光明池駅付近の最も狭いところで54メートル、最も広いところで93メートルとなっている。
この道路の両側には街路樹としてイチョウが植えられており、秋の黄葉とともにギンナン拾いを毎年楽しみにしている人もいる。しかし、2008年9月に極端な剪定がされ、お粗末な景観となっている。

泉北音頭【せんぼくおんど】

昭和51年(1976年)にできた泉北ニュータウンオリジナルの民謡。泉北ニュータウンレクリエーションの会により公募された173点から、槇塚台在住の森川繁さんの歌詞が選ばれ、補作・喜志邦三さん(詩人)、作曲・大野正雄さん(ビクター)、振り付け・中野サワエさん(中百舌鳥町)真田敏子さん(平井)蟻塚花子さん(檜尾)で、この年の泉北まつりでお披露目された。以来、泉ヶ丘駅前と栂美木多駅前を会場として毎年開かれていた泉北まつりでよく使われたが、泉北まつりが91年を最後になくなった後は耳にする機会が激減した。歌詞は以下の通り。
1:ハァー ここは泉北 みどりの街よ 山をひらいた 坂道行けば
何の花やら 何の花やら あまい風 ソレ
ホンニ 泉北ニュータウン ホンニ ヨイトコ ヨイヨイヨイ
2:ハァー ひろい光明 泉ヶ丘よ 栂もひと目の 展望台で
虹の七いろ 虹の七いろ 君とみた ソレ
ホンニ 泉北ニュータウン ホンニ ヨイトコ ヨイヨイヨイ
3:ハァー 丘は夕焼け 灯ともし頃よ 帰りまだかと 窓辺によれば
共に待つ気か 共に待つ気か 月も出た ソレ
ホンニ 泉北ニュータウン ホンニ ヨイトコ ヨイヨイヨイ
4:ハァー 夢もふくらむ 泉北暮らし 隣どうしもお向かいさんも
笑顔交わして 笑顔交わして 街づくり ソレ
ホンニ 泉北ニュータウン ホンニ ヨイトコ ヨイヨイヨイ

泉北開発センター【せんぼくかいはつせんたー】

大阪府の外郭団体で財団法人。昭和41年(1966年)3月、泉北ニュータウンの開発事業が始まり、これにともなう公共施設などの運営管理にあたるため、同年4月設立された。住宅分譲も行っていた。住民には単に「開発センター」という名前で親しまれ、コミュニティ本紙でもたいてい「開発センター」と記されていた。
開発から20年たった昭和61年(1986年)に事業がひととおり終わったとして「泉北センター」に改称。管轄範囲も少しずつ縮小されていった。泉ヶ丘プールなどは堺市に移管、栂センタービル、光明センタービルは民間に売却された。2005年10月に解散、同年11月、千里センター、臨海りんくうセンターとともに統合され、大阪府タウン管理財団(旧泉北センターは泉北事業本部 )となった。

泉北カルチャーサロン【せんぼくかるちゃーさろん】

泉ヶ丘南専門店街2階にあるギャラリースペース。昭和58年(1983年)オープン。泉北開発センター(後に泉北センター、タウン管理財団)の管理。間口7メートル、奥行き11メートル。展示スペース約80平方メートル、事務室兼倉庫約20平方メートル、展示壁総長約50メートル(可動パネル使用)。各種展覧会のほか、バーゲン会場としても使われる。
※2010年、同じフロアの別スペースに移転した。

泉北北線【せんぼくきたせん】

泉ヶ丘、栂、光明池地区の北部をつなぐ泉北北線。昭和52年(1977年)4月に桃山台区間の舗装工事が完成して全線開通した。南線、4号線とあわせ「泉北環状線」を成す。なお、北線と南線の「境目」は特にないようである。

泉北急病診療センター【せんぼくきゅうびょうしんりょうせんたー】

竹城台1丁8番1号、南保健センター隣りに所在。1989年(平成元年)12月30日オープン。日曜・祝日とお盆、年末年始に内科と小児科の診察を行う。鉄筋コンクリート2階建て、敷地面積約5千㎡、延べ床面積約1640㎡。診察室5室、検査室、観察室、処置室、薬局などを設置。45台分の駐車場完備。堺市衛生部が建設、財団法人・堺市救急医療事業団が運営。市内の医師が輪番で診察を担当している。当初は午前、午後、準夜診のみだったが、06年11月から、小児科は深夜診療を始めた。

泉北区【せんぼくく】

堺市が政令都市になれば、泉北ニュータウンが含まれる地域は「泉北区」となるだろうと思われていたが結局はそうならず、幻に終わった区名。
古くは1973年5月27日号の本紙記事でも「ニュータウン周辺含め 『泉北区』を構想 —- 堺市・政令都市めざす」の見出しがみえるように、早くからなんとなく「泉北支所」を経て「泉北区役所」ができ、泉北区になると思われてきた。
しかし、政令都市昇格を前に91年8月、堺市支所区域名称選定委員会が出した答申は、公募の結果は圧倒的に「泉北区」だったにもかかわらず「堺・東・西・南・北・中」。この時点で泉北ニュータウンが含まれる区域は「南区」になることに決まってしまった。
「泉北」にしなかった理由は「泉北郡とまぎらわしい」「他の区域名との統一性を考えた」という。
その後、庭代台校区各種団体代表者会議、桃山台校区各種団体代表者会議、赤坂台校区各種団体代表者会議、原山台連合自治会、御池台校区9自治会代表・連合自治会代表が選定審議のやり直しを要望した(92年)ものの堺市は拒否。そればかりか堺市は公共機関などにも区名を使うよう要請。消防署、図書館、保健センターなどが次々に「南」になっていった。住民たちはせめて警察署や郵便局などに「泉北」の名を残してほしい、と要望したが…。
ニュータウン住民にとってあまりにも身近だった「泉北」の名だが、将来、この名前は残るのかどうか。

泉北高校【せんぼくこうこう】

若松台3丁2番2号に昭和44年(1969年)4月開校。初代校長・辻野勅氏。当初全日制普通科7学級。平成4年(1992年)4月、国際教養科を併設。平成17年(2005年)4月、国際・科学高校に改編し、国際文化科、総合科学科を設置。

昭和41年3月に泉北ニュータウン起工式が行われたのは、現在の泉北高校グラウンド付近。

泉北考古資料館【せんぼくこうこしりょうかん】

→泉北すえむら資料館

泉北高速鉄道【せんぼくこうそくてつどう】

泉北ニュータウンの住民の足となるべく建設された鉄道。中百舌鳥で南海と乗り入れ、ニュータウンと都心(難波)を結ぶ。また、中百舌鳥で大阪市営地下鉄御堂筋線に乗り換えできる。
運営する大阪府都市開発株式会社は大阪府、大阪ガス、関西電力、大和・三和・住友の3銀行(当時)が出資(うち、大阪府が49%)する第三セクター。同社は鉄道部門以外に流通センターも経営する。当初は運転や駅務、技術部門は南海に頼っていたが、93年4月からすべて直営となった。
99年からスルットKANSAI、また2006年からPITAPAが使えるようになっている。
2010年、大阪府が(鉄道事業・流通事業を分割せず)一括売却・完全民営化の方針を打ち出した。受け入れ先は当初、米投資ファンド「ローンスター」に決定したが、運賃の値下げ幅が小さいことなどから住民や堺、和泉市議会が反発。府議会でも否決され、白紙に。新たに公募は行われず、南海が乗り継ぎ運賃一律80円の引き下げなどを提示。2014年7月南海電鉄に750億円で売却が決定した。

<あゆみ>
・1965年(昭和40年)12月、泉北ニュータウンの都市計画・事業決定と同時に設立。
・1971(昭和46)年4月1日、泉ヶ丘~深井~中百舌鳥間で営業開始。この間の建設費76億円
・1973(昭和48)年12月7日、栂美木多駅開業。この間の建設費26億円。
・1977(昭和52)年8月20日、光明池駅開業。この間の建設費83億円(車庫22億円含む)
・1995(平成7)年4月1日、和泉中央駅開業。この間の建設費126億円

<営業キロ>
中百舌鳥~深井 3.7km
深井~泉ヶ丘 4.1km
泉ヶ丘~栂美木多 2.4km
栂実木多~光明池 1.9km
光明池~和泉中央 2.2km
※泉ヶ丘と深井の間に「楢葉」駅をという要望が住民から出されたことがあったが(1992年)実現していない。

<運賃>
泉北高速といえば運賃が話題になり、かつては「日本一高い鉄道」と、よく言われたが、泉北高速の運賃は対キロ制になっており、1区間○○円、という計算方法をとっていない。また、一駅分の距離が長いので、一駅でも最低160円だが、他の鉄道と簡単に比較できない。大阪市営地下鉄は1区間200円だし、開業当時はともかく、いまは後発の鉄道もあり、すでに「伝説」となっているものと思われる。
<泉ヶ丘~中百舌鳥間の運賃の移り変わり>
1971年(昭和46年)60円
1974年(昭和49年)80円
1976年(昭和51年)110円
1978年(昭和53年)140円
1982年(昭和57年)150円
1991年(平成3年)180円
1997年(平成9年)200円
1998年(平成10年)220円
2014年(平成26年)230円

<高速>
1995年3月の本紙記事によると、泉北高速は中百舌鳥~光明池間12.1kmを12分ほどで走り、「日本一速い各駅停車」ではないかといわれている。直線区間が多く、ほとんど高架で踏み切りなどがないので速いという。また、坂が多く、下り坂では電気を切って勝手に加速する蛇行運転にしているので、スピードが速い割に電気をあまり使わない「省エネ運転」なのだそうだ。

<車両>
初期は南海と同じステンレスボディに青いラインの入った車両だったが、1990年に導入された5000系(写真)から、白いボディにブルーのラインのオリジナルな車両の運行が始まった。2011年現在、最新式は2007年から走っている7020系で、座席の中央に握り棒がついているのが特徴。また、優先座席とつり革の色はオレンジ色、社内案内表示がLEDから液晶式になり、画像も表示できるようになった。
泉北高速といえば、泉ヶ丘駅前にビッグバンができた年(1999年)に運行開始したペイント列車が有名。青地に松本零士氏デザインのキャラクター、ベアルとメロウを描いたもので、かなり目立つ。10年経ったいまでも外部から来た人は一瞬ぎょっとするようだが、住民も最初ははずかしかった(もう慣れた)。

<乗降客数>
各駅の一日の平均乗降客数は開業以来増加していたが、1993年から減少に転じた。ただし、95年の和泉中央駅開業で全体としては増えている。
ちなみに09年度の一日平均乗降客数は
中百舌鳥 120,596人
深井   23,589人
泉ヶ丘  44,719人
栂美木多 23,143人
光明池  33,692人
和泉中央 29,579人
合計   275,318人

泉北5号線【せんぼくごごうせん】

堺市道「三原台・槇塚台線」のこと。三原台1丁交差点~陶器山トンネルまで。ワシントンヤシの並ぶ道として知られる。この名称は一般的にはあまり知られていないが、泉北ニュータウンを扱った古い地図には記載されていることがある。

泉北すえむら資料館【せんぼくすえむらしりょうかん】

泉北ニュータウンの造成にともなって出土した須恵器などの埋蔵文化財を展示・保管するために、「府立泉北考古資料館」として開設された。昭和45年(1970年)11月1日開館。若松台2丁4番の大蓮公園内にある。のべ面積約800平方メートル、鉄筋コンクリート造り、地上1階、地下1階。3つの展示室と集会室1つ、収蔵庫、ギャラリーからなる。それぞれの建物が卍形に高さを違えて結ばれたユニークな設計であり、建物の屋上が公園の散策路の一部になっている。設計者は幕張メッセなどの設計で有名な建築家・槇文彦。大蓮公園の計画とともに手がけた。
開館当初は年間3万人以上の来館者を集めたが、最近は1万人前後と思われる。97年に文化財調査事務所が竹城台3丁(若竹大橋そば)にできてからは職員も減っている。05年6月に陶邑窯跡群出土の遺物が重要文化財に指定された際は特別展が開催されるなど注目されたが、財政難に伴う府の改革案では見直しの対象となる。当初は月曜休館だったが、03年4月から月・火曜休館となり、開館時間も10時~4時半となった。入館無料。集会室は各種市民グループの活動に利用されている。
2010年4月に堺市に移管。4月14日、名称も「泉北すえむら資料館」となって新たにオープンしたが、2016年に閉館。

泉北センター【せんぼくせんたー】

→「泉北開発センター」参照

泉北高倉小学校【せんぼくたかくらしょうがっこう】

高倉台3丁5番1号に所在する堺市立小学校。2013年4月に高倉台・高倉台西の両校を統合し発足。

泉北電報電話局【せんぼくでんぽうでんわきょく】

→NTT泉北営業所

泉北2号線【せんぼくにごうせん】

府道61号(堺かつらぎ線)の一部。昭和44(1969年)3月開通。4車線。1989年に堺市道路管理課が住民から道路の愛称を募集して、泉北2号線に。ニュータウンの中央を南北に貫き、津久野駅~庭代台までを指す。堺泉北有料道路の太平寺ICや阪和自動車道堺ICに直結。

泉北20年まつり【せんぼくにじゅうねんまつり】

泉北ニュータウン誕生20年を記念して、1986年(昭和61年)7月26日〜11月2日の100日間開催されたまつり。地元自治会や関係諸団体によるまつり実行委員会が中心となり、ニュータウンや周辺地域で文化・スポーツ等のさまざまな行事やイベントを行った。また、まつりにあたって、開幕式や閉幕式などでの受け付けや案内、パレードのコーディネート役として5人の「おまつりギャル」が大活躍。彼女らは、ニュータウン在住の昭和61年度中に満20歳を迎える女性、応募者15人の中から選ばれた。11月2日の閉幕式では、泉ヶ丘駅南側噴水広場で、20周年記念のモニュメント「三丘の塔」の除幕式が行われた。名前の由来は泉ヶ丘、栂、光明池の3地区と感謝のサンキューから。製作者は彫刻家・白石正義さん。100日間のまつりでは、67のイベントが開催され、約17万人もの人が参加した。

泉北ニュータウン中出張所【せんぼくにゅーたうんなかしゅっちょうしょ】

栂センタービル内にあった堺市役所の出張所。1973年12月開所。1995年10月から南支所(現在の南区役所)が業務を開始するにともなって廃止された。

泉北ニュータウン西出張所【せんぼくにゅーたうんにししゅっちょうしょ】

光明センタービル内にあった堺市役所の出張所。1995年10月から南支所(現在の南区役所)が業務を開始するにともなって廃止された。

泉北ニュータウン東出張所【せんぼくにゅーたうんひがししゅっちょうしょ】

泉ヶ丘センタービル内にあった堺市役所の出張所。1995年10月から南支所(現在の南区役所)が業務を開始するにともなって廃止された。

泉北八景【せんぼくはっけい】

泉北20年まつりの一環として行われた写真の公募展「泉北八景フォトコンテスト」で選ばれた作品。多治速比売神社、小谷城址、けやき並木(西原公園)、無心(田池)、ニュータウン暮色、大蓮池、雪景色(原山台)、展望台の夜景の8点。絵はがきが制作された。

泉北光明幼稚園【せんぼくひかりようちえん】

高倉台4丁2番1号に所在する幼稚園。昭和47年(1972年)創立。学校法人光明学園が運営。室内プール、英語保育あり。水泳、バレエ、ピアノなどの課外保育も。

泉北保健所【せんぼくほけんしょ】

→南保健センター(「み」の項)参照

泉北まつり【せんぼくまつり】

1974(昭和49)年~8月、1991(平成3)年、毎年夏に開催されていたイベント。
第1回は「泉北ファミリーフェスティバル」として同フェスティバル実行委員会・朝日新聞社主催、泉北開発センター(当時)他後援、荒山公園を中心に8月3日~11日に開催。翌1975年からは「泉北まつり」と名称を変え、泉ヶ丘駅前をメインの会場として毎年8月はじめに開催された。1976(昭和51)年の第3回にはニュータウンのオリジナル民謡「泉北音頭」をお披露目、第5回からは栂美木多駅前も会場に加わり、各地区から子どもみこしがにぎやかにくりだされるなど、夏の風物詩となりつつあった。ただし、「泉北まつり」とはいっても、泉北ニュータウン全体のまつりとはなり得なかった。光明池駅前では後に「光明池フェスティバル」(後の光明池まつり)が読売新聞販売の後援で開かれるようになり、朝日と読売のPR合戦に自治会が巻き込まれている、との批判もあった。結局91年の第18回を最後に、廃止された。

泉北郵便局【せんぼくゆうびんきょく】

堺市南区若松台3丁1番3号に所在する郵便局。郵政民営化以前の区分では普通郵便局。現在の建物は1976年完成、この年2月からここで業務を行うようになった。それまでは今の場所からほど近い豊田にあったが移転した。旧局舍は大正9年、特定局の上神谷郵便局として建てられたものでニュータウンの入居開始後の1972年に普通郵便局になり、名称も泉北郵便局となった。
現在の局舍は鉄筋コンクリート2階建て、のべ6712平方メートル。総工費9億5千万円で建設された。

泉北若竹保育園【せんぼくわかたけほいくえん】

泉北で2番目の民間保育園として、昭和47年(1972年)に小谷城山麓に開園。平成12年(2000年)に現在地(豊田1261)に移転。社会福祉法人小谷城福祉協会が経営。生後57日目から入園可。



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2015年までホームページ内に掲載していた「泉北ニュータウンの基礎知識」を再掲載しています。2023 […]

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記事中に掲載されている情報は掲載日(2023年2月1日)時点のものです。

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