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2015年までホームページ内に掲載していた「泉北ニュータウンの基礎知識」を再掲載しています。2023年1月加筆修正。
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な
長池【ながいけ】
(原山台の長池とは別)
赤坂台2丁の赤坂公園内にある。満水時の面積0.55ha。
長池【ながいけ】
原山台2丁の原山公園にある池。満水時の面積1.73ha。
長峰【ながみね】
泉ヶ丘地区と栂地区にはさまれた丘陵地帯。かつては雑木林におおわれた「山」で、尾根伝いの幅3メートルの道はハイキングコースとして親しまれていたが、鉢ヶ峯地区とともに府の圃(ほ)場整備事業の対象になり、1984年~1992年にかけての大規模な工事で整然とした農地に生まれ変わった。特に長峰地区は丘陵全域、面積72万平方メートルがその対象となり、付近の景観は工事前とは一変してしまっている。狭い田んぼが段々になっていた丘陵は切り崩され、農道や水路を整備して1区画約2000平方メートルの農地に。しかし、あたりをさえぎるものがなくなり、眺望の良さは抜群。メインの道路は幅5メートルに拡幅され、ハイキングコースとして愛好されている。
整備後はニュータウンに近いことを生かし、市民に親しまれる農業をめざし、レンゲ畑の開放、コスモスの花摘み、じゃがいものオーナー募集などのイベントを実施、大温室をつくって花き栽培にも力を入れる。
なんてん橋【なんてんばし】
赤坂台2丁、赤坂台センターバス停そばにかかる陸橋。写真手前、右側にスーパーリベラルの入っているマンション(ファミーユ赤坂台)がある。
に
濁り池【にごりいけ】
茶山台1丁、ビッグバン近くにある池。満水時の面積1.608ha。府の福祉部が管理。
西原公園【にしはらこうえん】
栂・美木多駅北側に広がる地区公園。公園中央の緑道に87本の大木が並ぶケヤキ並木が続く。西に大方池、東に西松尾池があり、池のほとりの斜面には1600本の桜が植樹され、桜の名所となっている。中央には、約千人収容のスタンドを備えたグラウンドがあり、地下はニュータウンの水道を賄う貯水池となっている。面積123,000㎡。「みどりのつどい」や「ジャンボ迷路」も開催される。
西山城【にしやまじょう】
現在の原山台1丁7番公社団地付近にかつてあった城。ニュータウンの泉ケ丘から栂にまたがる上神谷地区は、鎌倉時代から室町時代にかけて上神(にわ)氏が治めていた。大正11年刊の『大阪府全史』によると、鎌倉初期の1196年に東山城(現在の泉北高校敷地)、次いで5代目領主が小谷城(豊田)を築き、そして11代目が1347年に西山城を築いた。この3つをあわせて「鼎(かなえ)城」と呼ばれ、一族がここを拠点に勢力をふるっていた。しかし、室町末期の1571年、三好氏の軍に攻められ、3城とも滅ぼされ、城主も討ち死にした。 その後、遺臣らが供養のために「城山講」をつくって霊を祭り続けていたものの戦後は途絶えていた。しかし、昭和46年7月、ニュータウン造成にともない、城跡に残された墓が現在の地(原山台口バス停前)に移転させられ、記念碑も建立された。これを機に講が復活。毎年2月に城主をしのんで法要が行われている。
二本木山古墳【にほんぎやまこふん】
赤坂公園の地下に永久保存されている古墳。直径12メートル、高さ2メートルの円墳。赤坂公園入り口から右手のほうに進んだあたり。
昭和33年1月、この地(通称二本木山)で松林を果樹園にするために開墾していたところ、石棺を発掘。中には砂岩でできた石枕と、二体の人骨が完全な状態で残っていた。一体は男性、もう一体は女性だったそうだが、それ以上くわしいことはわかっていない。4世紀末から5世紀にかけてのもので、当時の豪族の墓と思われる。
発掘の後、古墳はふたたび埋め戻され、永久保存されることになった。その後、昭和52年~53年(1977年~1978年)にかけて府企業局が赤坂公園として整備。「古墳のある公園」となった。
写真は住宅地から見上げたところ(左手に赤坂台小学校がある)。階段を上りきったところに説明板がある。
日本敷物団地【にほんしきものだんち】
原山台5丁にある企業団地のひとつ。昭和37年(1962年)に日本敷物団地協同組合設立、翌1963年に用地取得、建設開始。総事業費25億円をかけて、昭和45年(1970年)11月竣工。敷地25万平方メートル。
当初は21の敷物業者が協同組合型式で参加、羊毛の洗工―染工―紡績―製絨―整理加工のユニットシステムを行い、年間生産額120億円、全国生産の約3分の1を占めていた。ニュータウンの主婦たちも多くパートとして働き、約100人がマイクロバスの送迎を受けて敷物作りに従事していたという。しかし、住宅不況でカーペットの需要も頭打ち、円高不況の影響もあって昭和58年頃から操業が落ち込み、倒産や合併で組合員数は減る一方だった。80年代には敷物団地内の未利用地が次々と売却され、高層マンションなどが建設されるようになっていった。
98年、オリックス・インテリア株式会社敷地内にイズミヤを核としたショッピングセンターがオープン。00年12月、隣接地に複合型映画館「ヴァージンシネマズ」(現在はTOHOシネマズ泉北)を中心としたショッピングセンター「クロスモール」がオープン。敷物団地はすっかり様変わりしてしまった。ほかにも、大型カー用品店「スーパーオートバックス」やドラッグストア、大型ホームセンター「ケーヨーデイツー」などが次々と建設された。09年10月にはスポーツクラブ「アクトス」がオープンした。
上神池【にわいけ】
原山台1丁7番にある池。原山台東小学校のすぐ北側にある。春には小学校側の歩道で桜が美しい。
庭代台【にわしろだい】
栂地区南部に所在する住区。基本計画ではK住区。昭和49年8月に入居開始。造成前はミカン山と雑木林が丘陵地をおおっていた。15戸ほどの農家の集落があり、庭代(にわだい)地区と呼ばれていたのが地名の由来。当初計画戸数は3548戸。1丁~4丁からなり、面積114ヘクタール。2009年4月末現在3383世帯・8362人。
庭代台近隣センター【にわしろだいきんりんせんたー】
スーパー「ライフ庭代台店」と専門店、郵便局、地域会館などから成る近隣センター。庭代台2丁9番。庭代台入居開始と同じ、昭和49年8月にオープンした。核店舗は当初からスーパー・ライフのまま。他に米屋(庭代台米穀店)、酒店(西上商店、タナカ酒店)、薬局(庭代薬局)、食堂(きた寿司)、本屋(ブックスタマキ)、美容院(ボヌール)、理容店(タマキ)、電気屋(ユニバーサル電機)、自転車屋(泉北サイクル)、菓子・パン(おかもと)、麺類・お好み(まつや)などがある。
庭代台小学校【にわしろだいしょうがっこう】
庭代台庭代台3丁12番1号に所在する堺市立小学校。昭和50年(1975年)4月、12クラス・387人でスタート。生徒数のピークは昭和58年の1629人。09年5月1日現在、15クラス・409人。
庭代台中学校【にわしろだいちゅうがっこう】
庭代台2丁19番1号に所在する堺市立中学校。昭和50年(1975年)4月1日開校。通学区域は庭代台、御池台、美木多上(一部)。生徒数はピーク時には1300人を超えていたが、2013年5月現在15クラス473人。
庭代【にわだい】
現在の庭代台中学校から泉北南線、御池台1丁にまたがる場所にあった集落。旧泉北郡上神谷村大字田中字庭代。
農家19軒の小さな集落だったが、ニュータウン計画によって立ち退かされた。19軒の農家は庭代台1丁の新しい宅地に移り住み、にわだいの山は削られ、谷あいにあった集落は埋められてしまった。この集落の住人であった矢嶌政一さんがふるさと・庭代への思いを断てず、記念碑建立を発案、企業局や堺市に場所の提供を訴えた。願いがかなって1990年、御池台1丁の緑地に碑が完成=写真=したが、当の矢嶌さんは88年12月に死去、除幕式には長男の正明さんが出席した。
記念碑は庭代台中学校南、鉄塔のそばにある。
上神谷【にわだに】
明治27年~昭和30年に存在した自治体名。平安時代の辞書『和妙抄』では、この地方のことを和泉国大鳥郡上神郷(いずみのくに・おおとりごおり・かみつみわのさと)と紹介されている。古い時代には神のことを「みわ」といったので、「上神郷」は神様が降りてこられたところ、という意味があったのだろう。この「みわのさと」が「にわのさと」となり、明治22年の町村制で北・中・南の上神村に分かれたが、同27年には、同じ谷筋にある村だからと合併して、上神谷村(にわだにむら)となったもの。はじめ大鳥郡、明治29年から泉北郡に所属。昭和30年、泉ヶ丘町に吸収された。
現在も「上神谷小学校」の名に残っている。また、石津川流域でとれる米は「上神谷米」として知られる。
上神谷会館【にわだにかいかん】
片蔵の青少年の家に併設されている会館。地区の住民が集会などに利用する。青少年の家が建っているところはもともと上神谷村役場と泉ヶ丘町立西中学校があったところで、体育館やグラウンドは西中学校のものが引き継がれている。上神谷会館は青少年の家の2階にあり、建物左側の外階段から上がるようになっている。
上神谷高校【にわだにこうこう】
御池台4丁24番に所在した府立高校。昭和54年(1979年)4月、ニュータウンでは4つ目の府立高校として創立。開校当初10クラス・470人定員。平成17年(2005年)3月に美木多高校と統合され、成美高校(校舎は美木多高校のものを使用)となった。卒業生総数7281名。跡地の約半分は住宅地になり、残りの土地に2009年4月、堺・上神谷支援学校が開校した。
「上神谷高校前」という南海バスの停留所は2005年4月から「御池台4丁南」に変わった。
上神谷小学校【にわだにしょうがっこう】
南区片蔵1425番地に所在する堺市立小学校。1908年(明治41年)泉北郡成美尋常高等小学校として開校。その後、上神谷国民学校、上神谷村立小学校、泉ヶ丘町立上神谷小学校を経て1959年(昭和34年)堺市立上神谷小学校となった。
成美尋常高等小学校のころは美木多村も通学範囲であったため、美木多高校と上神谷高校が統合されたとき、上神谷高校関係者から新高校の名称に「成美」の提案があったそうだ。
通学区域は泉田中、豊田、富蔵、鉢ヶ峯寺の全域と 片蔵、釜室、畑、槇塚台2丁のそれぞれ一部。堺市で最も校区が広い小学校である。卒業生は若松台中学校に進学する。
ね
ねむのき橋【ねむのきばし】
槇塚台3丁と1丁の間にかかる陸橋。
の
のうさぎ公園【のうさぎこうえん】
竹城台2丁2番(こひつじ保育園近く)にある児童公園。面積0.39ha。のうさぎの絵をあしらったプレートが入口にある
野々井【ののい】
和田川中流域、赤坂台と桃山台の間に位置する町名。明治22年~現在の大字名。はじめ北上神村、昭和10年福泉町、同36年からは堺市の大字。一部が、昭和47年桃山台、同50年赤坂台となる。
野々井遺跡【ののいいせき】
桃山台3丁、近隣センター北側に所在する古代集落遺跡。1975年3月から大阪府教委によって発掘調査が進められ、多数の竪穴式住居や掘立柱の建物跡、古墳が発掘された。同年5月31日には現地で説明会も開かれ、小学生を含む多くの参加者があった。発掘後、遺構は埋め戻され、現在桃山公園の広場の下に地下保存されている。